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2016年08月10日(Wed)

日出処の天子/人形愛 etc

7月27日~8月8日

日出処の天子

山岸涼子の『日出処の天子』を、約30年振りに読みました。
当時はこの『ずるてん(a.k.a.日出処の天子)』と『風と木の詩』と『トーマの心臓』は、少年愛もの三大傑作としてマンガ読みの間では必須マンガだったので、私も読んだのですが、超能力者で同性愛者で美少年の厩戸皇子(聖徳太子)が素敵すぎ!と興奮した以外では、お話そのものは「割とフツーだな・・・」と思った覚えがあります。少女マンガだから仕方がないとはいへ、古代の人々がやたら恋愛感情に振り回されてゐるのも、当時の若くて生硬な頭の私には抵抗感があったと思ひます。
ところが、約30年振りに読み返した『日出処の天子』は・・・凄く面白い!やー、よく出来てるわ、これ。この歳になって、初めてこの作品を理解できた様な気がしました。

若い時の私は、蘇我毛人に完璧に失恋した厩戸皇子が絶望して、この世は無意味・何をしても無駄・人は完全に孤独・救ひはない・・・と虚無的な考へを抱き、白痴の女の子を妃として索漠たる人生を生きていく・・・といった表面的な理解だった様な気がします。それはそれでいいけれど、なんだかスッキリしない終はり方だな・・・と思った覚えがあるのです。
しかし、これ、厩戸皇子が悟りに至る道程を描いた作品だったんですね。だって、この世は無意味・何をしても無駄・人は完全に孤独・・・って、仏教的には真理だもの。この真理を真理と捉へず、ネガティブに捉へるから“救ひはない”となる訳で、これを真理だと悟れば、これがそのまま“救ひ”へと転化する。
はっきり言って、“恋愛”なんて仏教的には煩悩ですから。厩戸皇子が完璧に失恋したのは正しいのです。さらに厩戸皇子は、毛人に失恋する事によって“力”も失ってゐる。厩戸皇子は超能力の持ち主ですが、その能力は毛人に補はれる事によって完璧になる。毛人に失恋するといふ事は、その完璧な能力を失ふ事になる。しかし・・・超能力だって、煩悩のひとつです。お釈迦様は否定なされた。故にここで厩戸皇子は二重に悟りに近づいてゐる。
後は、我々があのラストを、悲劇だとかネガティブに捉へずに、喜ばしいとポジティブに捉へる事が必要なのです。それによって厩戸皇子は“救はれる”。
にしても、少女マンガで“恋愛”を(煩悩として)完全に否定するのは、なかなか難しい。故に、実は『日出処の天子』のラストは些か曖昧な所があるのは事実なのです。しかし、読み方によって、分かる様になってゐる。どの様に読むか。それは読者に任されてゐると言へるでせう。
さういった意味でも、これは未だに必読マンガのひとつと言へると思ひます。

人形愛

“人形愛”といふ言葉を作ったのは澁澤龍彦らしいけれど、それはともかく・・・トモコは昔から人形が好きなのであった。って、そんなのはオパールの店長及び社長が人形なのからして明らかであらうが、さういったヌイグルミもとにかく、やはり我が家には大小様々な人形たちが居るのであった。
ジュサブローの人形とか、支那の陶器の人形。ブラジルの土俗的な人形や北欧の妖怪じみた人形。サンリオやミッキーマウス、ムーミンなんかのキャラクターものや、これは人形と言っていいのか、ネコや犬やパンダなんかの人形。そして数々の天使たち。その他にもねじ巻いたら歩くやつ、コケシやマトリョーシカ、バービーやブライスなんかも居ます。
となれば・・・アニメにはまったら当然、フィギュア、といふものがクローズアップされてくるでせう。むろん、我々はアニメに興味のない頃は、フィギュアにも興味はありませんでした。映画(実写)関連のフィギュアといふのは何体か持ってゐましたが、そこまで好きであった訳ではない。やはり、リアルに人間に似せようとしてゐるものはそこまでピンとこなくて、デフォルメ、といふか、象徴化がなされたものの方が好みであったからです。
では、アニメのフィギュアはどうなのか。よくアニメの世界を知らない頃は、アニメのフィギュアといへば、胸や目が奇形的に大きくデフォルメされた少女の奴が思ひ浮かび、単に気持ち悪い・・・といった偏見があったのですが、いざアニメの世界に飛び込んでみると、そんなのではないフィギュアもたくさんある、といふ事が分かりました。
2頭身、3頭身とかに小ちゃくデフォルメした奴がそれで、これは可愛い!アニメの絵そのものが象徴化されてゐるので、その相乗効果もあり、凄く可愛らしい人形となってゐるのです。
といふ訳で、我が家にはそんな奴らが続々と集まる様になってきました。
それだけではない。かういった世界は奥深いもので、単にそれらを観て愛でるだけではなく、着せ替へさせたり、様々なオブジェと組み合はせたりして楽しんだりするのです。で、そのためにはそのまま(買ったまま)ではダメなのです。基本、フィギュアは服を着たままの形で造形されてゐるので、それを脱がす事はできません。そこで!服を着てない裸のボディを購入して、そこに頭を付け替えて、それで着せ替へを行ふのです!
なんていふか、ちゃんとそんなボディがあるのが凄い。日本の人形文化の層の厚みを感じます。いや、全然別の会社のボディなんですよ。だから微妙に首と身体の接合部分の大きさが合はないので、間にゴムやマスキングテープなんかを挟んで調整するのです。このボディ、オビツ製作所といふ所が作ってゐる“オビツボディ”といふのが有名で、我が家でもそれを使ってゐますが、凄く優秀です。ちゃんと四肢の関節に球が入ってゐて、可動するのです。まるでハンス・ベルメールの人形みたい。澁澤が観たら、どう思ったでせうか。
服も、もちろん色々と売ってゐるのですが、猛者は自分で作ります。凄い。小道具も・・・作る人は居る様ですが、これも基本は売ってゐるものを使ふ。さっきも書いた様に、日本の人形文化の層の厚さ故、日本には様々な人形用の小道具があるのです。椅子とか机、バイクや自転車、キッチン用具、蚊遣り、楽器、スケボー・・・等々。興味のある人は、“オビツロイド”で検索して下さい。様々な秀作が観られますよ。
・・・で、検索して“オビツロイド”の画像を観た人は分かったと思ふのですが・・・ほぼ全て男性の人形ですよね。んで、それを作ってゐるのは女子の方々。踏み込むなら、腐女子の方々。つまり、BLです。そもそも“人形愛”とは、快楽と苦痛のオナニーマシン「独身者の機械」へと帰着するものなのだから、もともとエロティシズムと不可分の概念なのです。「独身者の機械」は、元来男性のものだったけれど、現代の“オビツロイド”で遊んでゐるのはほぼ女性。それが現代的でもあるし、彼女らこそ、正しく“人形愛”の継承者なのだ、と私は思ふのです。
今夜も、我が家では人形たちが騒がしい・・・。

160810.jpg 現在の我が家の食卓。何にハマってゐるか一目瞭然。ちなみに、浴衣を着てゐるのが“オビツロイド”です。

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