3月3日〜3月9日 [etc]
モデル問題
うのぴ来店。なんかまたデカくなった様な・・・。従兄弟の結婚式に出るために関東から帰ってきたみたいだけど、スーツを新調したさうだ。身体がでかくなりすぎて、もう以前のは入らないんだと。さういへば、「アメリカンスナイパー」のブラッドリー・クーパーの身体、どうだった?うのぴ的には大注目ぢゃない?
「いやー、あれは凄いです。基地で筋トレしてるシーンとかあったぢゃないですか。あれ、マシーンが軍隊用なのか、変はってるんです。あのデッドリフト・・・燃えたわー」
ははは、やはりな。で、映画自体はどうだった?
「もう、ガツーンとやられました。棍棒で殴られた様な・・・。でも、この映画、アメリカでは大論争になってるんですよね・・・。ボクは思ふんですけど、イラク戦争に対してはっきりした主張がある人は、やっぱ引っ掛かるんぢゃないか、と。ボクはそんな特に主張はないですから、普通に観てしまったんですけど」
う〜ん、主張、といふか、単なるイデオロギー的偏見だと思ふけど。それが邪魔して、映画が観られてないだけなんぢゃない。イラク戦争に反対か賛成かで、評価が変はる様な映画ぢゃないと思ふけどなー。
「マイケル・ムーアとか『この映画は素晴らしい。ブラッドリー・クーパーもいい。でも、モデルになったクリス・カイルはやっぱクソ野郎』みたいな事を言ってるんですよ。それはどう思ひます?」
それはあると思ふよ。でも、モデルはモデル、作品は作品、として分けてれば問題ないんぢゃない。クリス・カイルが本当にクソ野郎かどうかはまた別問題だとは思ふけど。
「しかし、もしホントなら・・・やっぱクソ野郎をカッコ良く描く、といふのはどうも、しっくり来ないんですけど。例へば、自分がクソ野郎と思ふ**をカッコ良く描く映画とかあったら、素直に観られるかどうか・・・」
まぁ、分かるけど。特に大ヒットした映画ともなれば、自然とプロパガンダ作用も働くし、色々と問題あるかもね・・・でも私は、やっぱ究極的には“モデルと作品は別”といふ考へを徹底すべきだと思ふ。それがフィクションに対する正しい作法だと思ふんだ。まぁ、人間の感情的にはなかなか納得できないとこもあるかもしれないけれど、個々人の好悪や考へと作品評価は切り離すべき。デュシャンも言ってるよ、「趣味は藝術の最大の敵」と。個人の好悪・趣味なんてホントはどうでもいいんだよ。
「はぁ・・・」
ははは、うのぴって趣味人だもんなー。でも、趣味人って、やっぱクソ野郎の一種だと思ふよ。藝術の敵だ。だからと言って、別に私は嫌ってる訳ぢゃないから。気にしないでね。
「ケンタロウさんの好悪なんでどうでもいいです!」
ははは、うのぴは居酒屋に行き過ぎ。
字幕問題
テラリー来店。なんか細くなったなぁ・・・。昨年一年で10キロ落したさうだ。友人の結婚式故に関東から帰ってきたとの事だが、スーツが変にならない様に、胸囲だけは保つトレーニングをしてるとか。ところでその痩せた方法だが・・・毎日体重計に乗る。それだけ、らしい。さういへばテラリーは、昔から痩せるのも太るのも、比較的に簡単であった。体質の問題なのだらう。(とはいへ、ダイエットかクスリ、どちらかは絶対にやってると思ふ。テラリーはさういふこと言ひたがらないんで)
「わたしの友人で映画やテレビの字幕関係の仕事に関はってる人間が居まして、彼によると、映画はなるべく吹き替へで観てほしい、と。字幕だと字数制限があるので、どうしたって意訳になり、ちゃんと伝はらない。吹き替へだと、まだそれがましなんださうです。」
ふむ、さういった話、よく聞くけど・・・でもやっぱ私は字幕の方がいいんだよね。声や喋り方が変はると、もう全てが変はってしまふ感じがするし、そもそも吹き替へだと、声だけでなく背後の空気感とかも全然違ふものになるだろ。それもう、違ふ作品だし。
「なるほど。むろん言葉が直接わかるのが一番いいんでせうが・・・でも、セリフがちゃんと分からないと気持ち悪くないですか?全く違ったニュアンスのセリフになってしまってる場合も多いみたいですよ」
うん、さういふ事もあるだらう。でもねー、セリフの意味なんて大体分かればいいや、と思ってるとこもある。言ってる事がわかったって、伝はらない人には伝はらないよ。それより、空気感が伝はる方が大事だと思ふ。みんな・・・たとへ吹き替へで観てもセリフなんてほとんど理解してないって。大体の感じで掴んでるだけ。だから意訳で十分。
「なら、ケンタロウさんは吹き替へには反対、と」
いや、そこまでは言はないよ、さすがに。吹き替へ文化、ってのもあるしね。それはそれで魅力的なんだと思ふ。でもそれは全く別の問題で・・・字幕と吹き替へ、どっちが優れてゐるか、といふ問題ではないと思ふだけ。それに・・・最近アニメを観る様になったから、声優さんって凄いなー、とか思ふ様になってきて。あくまでプロの声優さんね。だから、最近のなんか訳の分からない芸能人とかがあててる吹き替へとかは、絶対に観たくないけどね。
「なるほど・・・。ところで、先日わたしもゴダールの新作『さらば、愛の言葉よ』を観たんです。が・・・ちっとも分かりませんでした!」
わからない?でも、面白かっただろ?
「いえ、あそこまで意味が分からないと、ちっとも楽しめませんでした」
う〜ん、さうなのか・・・。基本、ゴダールなんて意味が分からなくても楽しめるもんなんだけどなぁ。初期の比較的ちゃんとストーリーがある映画を撮ってる頃から、ストーリーなんてどうでもいい、とばかりにアメリカのB級映画からテキトーにパクったもんを使ったりしてただろ。今、目の前に起こってゐる映像と音楽を楽しむもんなんだと思ふけど。意味なんて、その後からみんなテキトーにつけてんだよ。
「さうですか・・・。やはり私は頭でっかちで・・・身体を絞ってる場合ぢゃないかもしれません。もっと筋肉をつけないと・・・」
いや、テラリーに足りないのは筋肉ぢゃないよ。“愛”だよ!愛の実践だよ!まづ、汝の隣人を愛せ!
「え、わたしの隣人・・・」
と、恐る恐るテラリーが隣を見ると、そこにはウメドンがドーンと座ってゐたのであった。
「ムリっす!!!」
何を言ってるんだ。確かに二人は全く会話が通じないが・・・大事なのは言葉ぢゃない。愛の実践だよ。それこそが『さらば、愛の言葉よ』だ。ゴダールを理解するためには、まづそっからだな。
「もう、別にゴダールを理解しなくてもいいです・・・」
それにしても、やっぱ「ADIEU AU LANGAGE」は、「さらば、言葉よ」と訳すべきだよなぁ。
Comments
投稿者 マツヤマ : 2015年03月11日 11:08
アメリカン・スナイパー、やっと観れた。評価は言うまでもなく。
クリスが911の映像を見て、瞬間に戦意高揚するところで「早っ!速攻かよ!」って笑ってしまったが、アメリカにはああいうの多いのかなぁ。こないだのヨルダン人パイロット殺害の長編映像をFOXがネット公開した後にヨルダン国王のコスプレを披露したのも、狙ってんだろうな、と思う。日本の場合はせいぜいネトウヨが増える程度だろうけど。
冒頭でクリスの父親が言う「人間には3種類ある。狼と羊と、羊を狼から護る番犬」の所で、ちょっと違和感があった。オレは50年くらい前の“イタリアの西部”から2種類「殺る奴と殺られる奴」もしくは「騙す奴と騙される奴」と教わっていたからだ。そう思って観ていると、やはり2種類しかいないことが分かってくる。クリスも羊にすぎないということが。クリスが無意識に自分を正当化するために「蛮人ども」とイラク兵を呼んでいることを「この映画がそう言っている」と思い込む奴がアホな解釈をしているみたいだが。
シリア人狙撃手ムスタファにも護るべき人がいること、過去の栄光の額縁、その後の射殺体を、ほんの一瞬程度映すだけで、あの狙撃手の人生の悲しさがズンと胸を衝く。中東に狼はいない。この映画の素晴らしさは「では狼は誰なんだ?」と言及して、安っぽい政治映画にしていないところだと思う。
あと、クリスが聖書を読まないのを「胸ポケットのそれは弾よけか?」と仲間に揶揄されるところで、原作は知らないけどイーストウッドっぽいな、と思ったてたら、イラク兵のことを「コーランは持ってたかどうか知らんがカラシニコフは持ってた」みたいなことを言ったところで、西側と中東の戦争は宗教戦争ではないということを語っているんだな、と思った。こういう対比的な描き方や、相手側の人生を見せることを分けて作ったのが「硫黄島」の二部作なんだよね。ほんの少しでもちゃんと両者の視点で描くところがまた素晴らしい。
さらにもうひとつ「ジャージーボーイズ」でも思ったことだけど、奥さんたちは独身時代に、どんなにぶっ飛んでても、結婚して母親になると、けっこう堅実になるところが、なんかリアル。あと、これに限らずハリウッド映画を見る限りでは、飲み屋が格好の出会いの場であるということ。オパールのカウンターにも2〜3人の常連独身男性がいるけど、出会い…あるかなぁ〜?
投稿者 uno : 2015年03月12日 21:03
マツヤマさん
あと一週間早く見てたらカウンターで話せたのに!
ほんと素晴らしい作品でしたよね。
あのバー(飲み屋って。。。)の場面もイーストウッドうまいなーって思いました。スピード感があって、何気ない会話なのに映画の中に引き込まれていく。二人とも凄く魅力的。
カウンターでの出会い。。。カウンターに佇む男はビール小瓶を持った太い腕がTシャツの袖から見えてないとダメだと思うんです。女性はそこにグッと来るんじゃないでしょうか(勘違い1)
私も次からはコロナかな。
てなわけでトレーニング頑張って出直します!(勘違い2)
あるかなぁ〜?
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