崩壊/命日/漢 [etc]
7月21日〜7月30日
崩壊
雨が激しい。前が見えない程の激しい雨は、普通は数時間もすればやんで、嘘みたいな晴天に変はったりするものだけれど、それが朝から晩まで続いてゐる。止まない。おかげで、たうたう夜には雨漏りまで始まった。
風も激しい。先日の台風の時に散々飛ばされ、痛めつけられたからか、店の前に出してゐる看板が崩壊した。仕方ないので、崩壊して板きれになった看板の欠片を店の前に立てかける。半年前に直したばかりのエスプレッソマシーンも壊れた。ボタンを押しても何の反応もない。意地になって押し続けると、突如圧力が異常なスピードであがりはじめ、轟音をあげながら本体が振動を始めたので、慌てて電源を切った。こんな天候と、こんな調子だからか、お客さんも来ない。これはジワジワと店を内部から崩壊させる地獄である。
そんな時に、トモコが倒れた。目眩が激しく、起き上がれないといふ。私自身も、痛風発作の再発なのか、まともに立ち・歩く事ができず、そこらを這ひずり回ってゐる。ユキエさんは、お客さんが来ないので、キッチンの奥でひっそりと息を潜め、気配を消してゐる。
そんな中、ポツ、ポツと現れたお客さんは、なぜかみな注文の珈琲を前にテーブルの上で眠り始める。雨漏りの音、風に軋む建物の声、半ば針飛びを起こしたレコードの奏でる曲、そこに被さる静かな寝息と夢で充満した空間の重さ。窓の外をみれば、巨大な人間が咆哮とともに立ち上がり、身体を伸ばすのが見える・・・。
人間は自覚を持った無にすぎない ー ユリウス・バーンゼン
命日
今年も7月23日はババさんの命日でした(当たり前か)。必ず来店してくれるマツヤマさん・ベッチ・うのぴの三人は当然として、今年は他にもたくさんの常連さんが来店してくれました。
といっても、別にババさんの命日に合はせた訳ではない。むしろ、ババさんなんか知らない、といった新しい常連の方々がたくさん来てくれたのです。
ノロさん、吉田さん、イナオカ夫妻、M先生・・・など。しかし、仮令たまたまであったとしても、この日に来た、といふ事に意味があるであらう、と思ひますので、一応記しておきます。
命日だからと言って、今や別に特にババさんの事を話す訳ではない。それでも、やはり会話の端々にババさんが顔を覗かせたりするのです。それは、ババさんの事を知らない人との会話であっても同じです。
例へば、ノロさんとの会話。ノロさんは、先日観にいった「MAD MAX」が滅法面白かったので、友だちを連れて二度目を観に行ったさうです。が・・・
「ダメでしたねー。友だちに気を遣ってしまって、一度目ほど楽しめなかったですねー。やっぱ映画は一人で観ないとダメですねー」
正にその通り!その時、ノロさんの横でババさんが親指を立ててゐたのを、ノロさんは知らなかったでせう。
漢
日本語ラップのMC漢による自伝「ヒップホップドリーム」を読みました。
MC漢は私も割と好きで、MSCによるデビューミニアルバム「帝都崩壊」の頃から、セカンドフルアルバムの「STREET LIFE」、MC漢のソロ「導」のあたりまで熱心に聴いてゐたのですが、その後、私自身の日本語ラップに対する関心が薄れてしまった事もあり、いったいその後どうなってゐるのやらさっぱり分からない状態になってゐました。
当たり前ですが、その後の経緯が、この本を読むとよくわかる。すると、なかなか凄い事になってゐて・・・所属レーベルであるLibraと揉め、UMBの主導権も奪はれ、MC漢は一時期シーンから消えてゐた様なのです。私が聴いてゐた頃は、イケイケドンドン!って感じだったのですが・・・。
むろん今は復活し、仕切り直し中。故にこの本も出たのですが、ストリートから成り上がり、掴んだ栄光も束の間に没落、そして復活、と、ベタながらも古典的な様式に乗っ取った形で書かれてをり、読み物としてもかなり楽しめる本でした。
ところで、私は前からMC漢たちの唱へる“リアルスタイル”といふものに違和感があったのです。彼らは“リアルスタイル”を売り物に、自分たちが“フェイク”と認定した連中に喧嘩を売る、といふ強面スタイルでシーンに登場しました。で、この“リアルスタイル”といふものですが、要は“自分たちが本当に体験したことだけをラップする”“自分たちがラップしてしまった事は必ず実行する”といふもので、たとへばラップバトルで相手に対して「刺す」とラップしてしまったら、後から襲撃して本当に“刺す”・・・とか。こんな感じで、口先だけで悪ぶってるラッパーたちに“フェイク野郎!”とガンガン喧嘩を売って名を上げていったのです。
しかし、この理屈はあまりにナイーブです。ラップといふのは表現行為であり、表現行為といふのは「仮面の告白」なのであって、嘘をつき演技をする事によって“リアル”が立ち現れるものです。そもそも彼らが依拠するギャングスタラップだって、そのオリジネーターのひとりアイス・キューブが、自らは体験してゐない架空のストリートをラップする事によってできあがったものです。詩人は嘘をつくもの。嘘をつくことによって、“リアル”を表現する人たちです。まぁ、ここらは本場アメリカのラッパーたちでも分かってない人は居るので、ラップがかっこ良ければ、こんな理屈なんかどうでもよい、ともいへる。で、実際に彼らのラップはカッコ良かったので、私はそれほど気にしてはゐなかったのですが・・・。
この本を読んで、彼らの唱へる“リアルスタイル”といふものは、私の考へてゐたものほど単純なものではない、といふ事が分かりました。彼らの“リアルスタイル”とは、日本人としてのヒップホップライフを真剣に生きる、といふ事を考へ詰めた末に出て来たものだったのです。
アメリカの物真似ではない、日本人としてのヒップホップとはどういったものか。彼らは共同生活とストリートビジネスをしながら、真剣に考へ詰めます。むろん、こんな事は自覚的なヒップホップ人はみんな考へてゐる事ですが、ここには世代の違ひ、といふものがある。彼らの前の世代は、どうしたってまづ音楽やダンス、グラフティなどの、スタイルとしてのヒップホップにガーンとやられ、そこからヒップホップの世界に入っていったので、スタイル優先の所がある。ラッパーなら、まづ音楽としてのカッコ良さ、クオリティありきの姿勢です。
が、漢たちの世代になると、街の不良がカッコ良く生きていくための哲学としてのヒップホップ、といふ所から入ってきてゐる感があります。そこまで日本にヒップホップ文化が根付いた故の現象でせう。だから、漢はラッパーであるにも関はらず、特に好きなアーティストも居ないし、そこまで真剣にレコードを掘った事もない、といった発言をします。それより、“リアル”である事が大事だ、と。漢のいふ“リアル”とは、真剣に全人生を賭けてヒップホップを生きてゐる、といふ事実から立ち現れてくるものなので、たとへばいくらカッコいいラップをしても、そこにそいつの生き方が関はってゐないのならば、そいつはフェイク野郎、といふ事になる。ここらは微妙で難しい問題ですが、漢の言ひたい事はよくわかる。
実際、MSCや漢の楽曲には、音楽的にはどうか?といふものも結構あるのですが、そのラップには妙に力強い“リアル”感が充溢してゐます。そして、これこそがヒップホップなのでは、と思ふ事も事実なのです。
色々と考へさせられる本でした。
Comments
投稿者 sawa : 2015年08月03日 12:36
崩壊に書かれている光景がありありと浮かびました。かっこいい文体ですね!ケンタロウさんトモコさんもくれぐれもご自愛ください。それにしてもババさんの命日にオパール行きたかったな~。
投稿者 元店主 : 2015年08月04日 03:46
sawaさんへ
はい。元ネタはクビーンの「裏面」ですよ。
来年の7月23日は是非オパールまでわざわざ御越し下さい。来なかったら、日記でネタにするかも。
投稿者 sawa : 2015年08月04日 08:38
裏面読みたい!せっかく日記のネタにして頂けるなら、不在ではなく実在ネタを目指し来年はスケジュール調整します!
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