1月20日〜1月26日 [etc]
ジーンズブルース
梅本座開催。まぁ、みんなで集まって映画を観るんだけど、今回の映画は「ジーンズブルース 明日なき無頼派」中島貞夫監督(1974年)。梶芽衣子主演、渡瀬恒彦客演の和製ボニー&クライド、といった趣きの作品です。だから、一応ロードムービー・・・でもあるんだけど、なんせ日本は狭いからね。逃げ回ると言ったって、なんかせせこましい。みみっちい。でも、それが非常に日本的で良い、ともいへる。ラストに立て籠った山小屋は、あからさまに浅間山荘を思はせて・・・ニヤリ。日の丸を撃ち抜いたり、家族の情より個人間の情に重きを置く所など、左翼・反体制魂が滲み出てゐて、それもまたよし。なんつっても、猟銃を持つ梶芽衣子が凄くカッコ良かったのがグーでした(動くとイマイチだったりするんだけど・・・静止画はやっぱいいです)。
ところで、梅本座の面々は、みんな古い日本映画を観てないんだよね。オーソンとか結構たくさんの映画を観てゐて、シネフィル青年っぽいのに、昔の日本映画はほとんど観てない、と(「黒澤を何本か観たぐらゐで・・・」とのこと)。これは世代の違ひもあるのか。私なんか、特に映画好きといふ事はなく、本数もあまり観てないんだけど、それでも若い時には名画座や二番館なんかがたくさんあり、500円や1000円で二本立て、三本立てをやってゐたので、自然とそこに通ふうちに、昔の日本映画にも触れたもんだけど。
梅本座では、日本映画を積極的に観ていくのもいいかもしれない。
あやや
今回の梅本座には、アヤヤが初参加。アヤヤは、最近オパールの常連さんになった人で・・・といふのは実は正確ではなく、10年以上前、初期オパールに通ってくれてゐた人なのです。その後、しばらく外国で暮らしてゐて、最近日本に帰ってきたとのこと。しかし、まぁ、私もトモコもアヤヤの事は覚えてないんだけど、それもそのはず。アヤヤ曰く「あの頃は二人とも恐くて話しかける事なんて考へられなかった」。・・・うーむ、しばしばさういった話を聞くんだけど・・・なんでだろ。我々はちっとも恐くないのにー!
それはともかく。アヤヤも映画は好きらしく、どんなものが好きかを尋ねてみると、ハル・アシュビー(監督)の「ハロルドとモード」(ちなみにサトーさんはコリン・ヒギンズ(脚本)の「ハロルドとモード」と言ひます)、ジョン・ヒューズの初期作品、ジャド・アパトーやフラット・パック関連の諸作・・・との事で、うん、アヤヤの趣味、分かったよ!
アヤヤも昔の日本映画はほとんど観た事がない、との事(「黒澤を何本か観たぐらゐで・・・」と、どこかで聞いたセリフ)。で、今回の「ジーンズブルース」も面白かったとの事なので、やっぱ日本映画を中心にやっていくのがいいかもねー。
ビッグ・アイズ
ティム・バートンの新作「ビッグ・アイズ」をMOVIX京都に観に行きました。これは実話に基づいた話で、大きな眼の子供たちの絵を描いてポップアートの先駆けを成し、巨額の富と名声を得たウォルター・キーンといふアーティストの話・・・なんだけど、実は彼には秘密があって、それは実際に絵を描いてゐたのは、奥さんのマーガレットだった(彼は絵なんか描けなかった)といふもの。だから実際は、マーガレット・キーンといふアーティストが、夫の抑圧と搾取を撥ね除けて、自らの権利を回復する話・・・となってゐるのです。
随所にティム・バートンらしさは残るものの、パッと見はあまりティム・バートンらしくない作品。とはいへ、そんな事は関係なく、フツーに面白い作品。なかなか良い作品で、私はオッケー。なんだけど、これ、賛否両論に分かれるのでは・・・と思ひ、「キネ旬」を覗いてみると・・・やっぱ分かれてる。五人の人がこの映画に触れてゐるんだけど、肯定的評価が三、否定的(とまではいかないかもしれないけれど)評価が二、といった感じでした。
しかし!私はこれらの人々のコメントを読んでゐて、ええ!!とビックリしたのです。なぜなら、否定的評価の二人と、肯定的評価のうち一人が、この映画をマーガレット・キーンの映画とし、ティム・バートンは彼女に自らを投影、彼女に主眼を置いて描いてゐる、といふ前提で論を進めてゐたからです。
で、否定的な人たちは、マーガレットの心情に迫れてない、描き方が薄い、突っ込みが浅い、共感がない、といった形での否定的評価。肯定的な人は、その逆、といった感じなのですが・・・いやー、ちょっと待って。確かにこの映画の主人公はマーガレットだし、ティム・バートンは主要人物に自分を投影する作風の人だけれど・・・でも、私から観たら、この映画の(真の)主人公はウォルター・キーンだし、故に、ティム・バートンが自己を投影し、主眼を置いてゐるのは、ウォルター・キーンだと思ふのです。ってか、完全にさう思って観てゐたよ。
そりゃ、ティム・バートンは本当に才能も実力もあるアーティストだから、才能も実力もないウォルター・キーンに自己投影するのは変、との意見はあるかもしれない。でも、それなら「エド・ウッド」はティム・バートンの自画像、といふほぼ定まったティム・バートン評価もおかしい事になる。ティム・バートンは、所謂いい絵が描ける、とか、良い映画が撮れる、といったフツーの価値観とは違ふ所に重きを置く人ではないのか。才能も実力もないけれど、自分を強く信じ、信じ過ぎて、なにかとんでもない事をやらかしてしまった・・・といふのに重きを置く人ではないのか。となれば、彼が重きを置いて描いてゐるのは、才能も実力もないのに、美術史の流れを変へてしまったウォルター・キーンの方になるんぢゃないの。
だから、否定的評価の人たちの非難する、マーガレットの描き方が薄い、突っ込みが浅い、といふのはそれはその通りで、ってか、その様に描いてるんぢゃないでせうか。
牽強付会を承知で言へば、冒頭にウォーホールの言葉を引いてゐるのは、ウォルター・キーンこそ真の(ポップ)アーティストだ、とティム・バートンは言ひたかったのではないか。密かに。(マーガレットとバートンは知り合ひらしいので、露骨には言へないもんね、そんなこと)
実は肯定的評価の残りの二人、小野耕世氏は多分、柳下毅一郎氏はほぼ確実に、この映画の主眼はウォルター・キーンとしてゐます。それを読んで、私はホッとしました。やっぱさうだよねー、少なくともバートンファンならさう観るよねー、あー、良かった。
ティム・バートンって、割と分かりやすい映画作家だと思ってゐたんだけど、それでも見方って分かれるもんですね。(さういへば、その昔、「ビッグフィッシュ」を巡って、ババさんとこんな感じで見方が対立した事があったのを思ひ出しましたー)
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