ジョージ・ハリスン [映画, 音楽]
只今、我が家では「ジョージ・ハリスン祭り」が絶賛開催中です!
いやー、ジョージね、ジョージ。私は子供の頃、ビートルズのファンだったので、むろんジョージには多少の馴染みはあります。「サムシング」や「ホワイルマイギター・・・」はビートルズの楽曲の中でもトップクラスに好きな作品でしたし、ソロアルバム「オールシング・マストパス」は大傑作である!と子供心に確信してをりました。
が、なんと言っても私はジョン・レノンファン。とにかく、自分の中に占めるジョンの割合が大き過ぎて、どうしたって当時はジョージの存在は霞みがちでした。つーか、完全に霞んでたな。
それがこの歳になって、まさか朝から晩までジョージの楽曲を聴き、一日中ジョージについて語り合ふ日が来るとは・・・。
きっかけは、マーティン・スコセッシ監督「ジョージ・ハリスン リヴィング・イン・ザ・マテリアルワールド」です。ジョージの映像と関係者に対するインタビューで構成されたドキュメンタリー作品で、3時間45分の大作。途中で10分間の休憩あり。といふのをMOVIXに観に行ったんだけれども、これにトモコが嵌って。それに引きずられる様に私も・・・といった次第です。
この映画は面白いです。4時間近い長さなんて、全く感じさせない。私が感心したのは、スコセッシの考へがしっかりと貫かれてゐる所です。それは主に次の2点に窺はれるでせう。ひとつはジョージに関はった人々を通じてジョージを浮かび上がらせてゐること。もうひとつは、流される音楽の扱ひ方です。
まづ、最初の点。これはジョージはすでに亡くなってゐる訳ですから、関係者の話で構成するのは当たり前やん、と思はれるかもしれません。いや、それはちょっと違ふ。ジョージに関する映像は厖大に残ってゐる訳ですから、それを中心にして彼の生涯を組み立て、時々補助的に関係者にインタビュー映像を挟む、といふやり方だってあったはずです。が、この映画では、とにかく関係者の映像が前面に出て来てゐる。それは多分スコセッシが、(ジョージそのものに焦点を合はせるのではなく)ジョージと他人との係り合ひの中から、ジョージを浮かび上がらせようとしたからだと思ふのです。そしてそれは見事な成果をあげてゐると思はれます。
ジョージは聖と俗の間を激しく揺れ動いた人でした。世界一のポップスターとして俗の頂点を極め、様々な欲望(物欲や性欲、ドラッグ・・・)に振り回されながらも、聖なるものへの憧憬が強く、インドに憧れて瞑想を習ひ、シタールを弾き、新宗教に嵌り・・・。そんなジョージの事を語るのに、人々は主にジョージの聖なる部分についてばかり語ります。では、それによって一面的なジョージ礼賛ものにこの映画がなってゐるか、といふと、そんな事はありません。人々のその語り口、あるひは語る人々の顔から、ジョージの闇の部分が顔を覗かせるのです。
はっきり言って、この映画に出てゐる関係者たちの明暗は分かれてゐます。何の明暗かといふと、“顔”の明暗です。ずばり言へば、醜く歳をとった顔と美しく歳をとった顔の明暗です。醜い・・・といふのはちょっと言ひ過ぎかもしれませんが、それにしたって酷いだらう、パティとクラプトン!彼らは、ジョージの俗の部分、闇の部分に強く感応、対応した人々だと思ふのです。これは別にパティやクラプトンを非難してゐるのではありませんし、私だってジョージとクラプトンの間にあった音楽上のケミストリーは素晴らしいものだったと思ってますが、まぁ、やはり人格といふのは他者との関係性の中に立ち現れるものよなぁ、と思った訳です。これはスコセッシが意識的に採用した方法ではないでせうか。
あと映画に使はれた音楽に関してですが、多分ジョージファンの方々は感じてをられると思ひますが、結構選曲に偏りがあったと思ふのです。例へば、「セット・オン・ユー」を入れないのは、え?といふ感じだと思ふのですが(だって後期最大のヒット曲でせう、これ)、それを敢てバッサリ切り捨てたのは、スコセッシの音楽の趣味・哲学から来るものだと思ふのです。これは正に、スコセッシとジョージの関係性からジョージの音楽を立ち上がらせる方法でせう。
この様に、方法論といふか、考へがしっかりしてるが故に、この映画は長尺にも関はらず全く飽きさせない、一本筋の通ったものになったのだと私は考へます。数々の優れた音楽ドキュメンタリー映画を撮ってきたスコセッシだからこそ撮れた作品ではないでせうか。
それにしたって、「オールシング・マスト・パス」を5回も続けて聴いてるのはやり過ぎではないか?と、トモコをみてたら思ひます。ちなみに、私は「ジョージ・ハリスン帝国」が今のお気に入りです。
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