悔ひなき選択/ポール・スミス展 [etc]
7月5日~7月17日
悔ひなき選択
イギリスのEUからの離脱が、国民投票によって決まりましたね。この事に関して私が日本で接する意見は、「イギリスのEU離脱は愚かな選択だ!」「あーあ、イギリスやっちゃったね、残念!」と云ったものが大半を占める様に思へます。しかし・・・私はこれらの意見に対して、モヤモヤと違和感を感じるんですね。
いや、別に私は「イギリスはEUを離脱した方が良かった」とか言ひたい訳ではありません。ていふか、離脱が結果として良かったのか悪かったのか、なんて誰にも分からないんぢゃないの?とか思ってしまふのです。で、それなのに、イギリス国民が国民投票によって決めた選択に対し、愚かだの残念だの言ふのは、なんか違ふんぢゃないか?と思ふのです。
・・・そんな事を思ひながらモヤモヤ日々を過ごしてゐたら、そのモヤモヤに形を与へる作品に出会ひました。『進撃の巨人』のスピンオフ作品、『悔いなき選択』です。
これは、人類最強の戦士リヴァイと後に彼の上司となるエルヴィンの出会ひを描いた作品で、『進撃の巨人』のスピンオフとして原作もある様ですが、私はアニメ版を観ました。
この作品では、リヴァイが自らの哲学として持つ“悔ひなき選択”といふ考へが、もともとはエルヴィンから与へられたものである事が描かれます。
この思想とは、AかBかの選択があった時に、結果がどうなるかなんて誰にも分からない。だから自ら選択をなし、たとへその結果が最悪のものとなったとしても、決してその選択を悔ひてはならない、といふものです。なぜなら、後悔の記憶は次の選択を鈍らし、それが積み重なれば、遂には選択を他人任せにする様になってしまふから。選択に於いて大事なのは、その選択が正しいかどうかではなく(結果がどうなるかではなく)、その選択を自分がなすこと。選択の結果がどうなるかなんて(究極的には)誰にも分からないのだから、自分で選択をなし、その結果がどうならうとそれを自ら引き受け、後悔せずに進んでいくしかない。いや、進んでいくべきだ。といふものです。
これはなんと、一時期私が唱へてゐた“リバタリ”といふ考へと同じではないか!ババーン!
・・・といふ訳で、イギリスが自らなした選択に対して、愚かだの残念だの他人がいふのはやっぱ違ふ、と思ふのです。リヴァイに倣へば「お前は間違ってない」といふこと。たとへこの選択の結果で苦しむ事態が訪れやうと、イギリス国民自体がそれを引き受け、粛々とやっていけば良い事なのだから。「お前の好きな方を選べ」。それに、EUからの離脱は、EUに譲渡してゐた自らの主権(の一部)を取り戻す事なので、その点は良い事だとも思へるし。「ガキども、これは一体、どういう状況だ?」。
にしても、リヴァイはかっこええわー。
ポール・スミス展
『ポール・スミス展 HELLO,MY NAME IS PAUL SMITH』@京都国立近代美術館に行きました。
『ポール・スミス展』といへば、その昔、神戸のファッションミュージアムでやった奴が印象的でしたが、今回は場所が京都国立近代美術館なので、そこまで大規模なのは出来ないだらう・・・と思ってゐたら、やっぱその通りだったんだけど、それでもやはり凄く面白かった。
ポール・スミスは、私とトモコがかつて最も好きなブランドであった。一時期は、ポール・スミスの服ばっかり着てたぐらゐ。でも、まぁ、今はちょっと色々と、お金もないし、欲しいけどブランドものなんて買へないし・・・とかあって、ポール・スミスからは離れちゃったけどね(代はりにアニメのTシャツとか着てるが・・・これはまた別の話か?)。
ポール・スミスの何が好きって、それは彼(及び彼のブランド)が所謂ファッションオタク的でない所。それはつまり、ポースミの服は、彼の人生・存在の一部であり、且つ全体でもある、といふこと。・・・あのー、まぁ、言ってしまふけど、所謂ファッションオタク的な人たちって、なんかカッコワルー、と思ふんだよね。それは、彼・彼女らのファッションが、彼・彼女らの全体ではあっても、一部ではないから。彼・彼女=ファッションになってしまってゐて、ファッション以外の部分、本を読んだり映画や芝居を観たり音楽を聴いたり、美術館に行ったり遺跡を訪ねたり自然の中を歩いたり、思索をしたり観照したり交歓したり・・・といった部分が限りなく薄い。それではダメなんだなー、と私は思ふのです。
自分の作るもの、あるひは仕事。それ以外の事をどれだけ充実させる事ができるかが重要で、そしてその厖大なそれ以外の物事を如何にしてそれ(もの・仕事)に反映させる事ができるか、が大切なんだと私は考へてゐます。
かういった考へに、ポースミはバッチリ合ふんだよねぇ。
むろん、オパールもさういった考へのもとにあるんですよ。一応。
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