僕の先輩/たまこまーけっと [etc]
5月19日~5月31日
僕の先輩
羽生山へび子『僕の先輩』を読みました。まぁ、これはBLのマンガなんだけれども、へび子は絵が上手いし、ギャグのセンスも冴えてゐるので、なんつーかフツーに楽しく読めます。特にBLだからと言ってひっかかる事もなく・・・いや、一カ所だけ、ひっかかるとこあったな。今回はそれについて書いてみよう。
『僕の先輩』は、“はじめ”といふ可愛らしいけどヘボヘボな男の子(高校生)が、不良に絡まれてゐる所を助けてくれた喧嘩がメチャ強い“先輩”に惚れてしまって、ずうっとつきまとって先輩がそれに振り回される・・・といった、まぁ、ラブコメみたいなもんです。で、私が違和感を感じた所は、この先輩がいきなりはじめにキスをするシーン。え?ちょっと不自然ぢゃない、今の?と。
同じ事は、実は中村明日美子の『同級生』でも感じて、これも草壁が佐条にいきなり(初めての)キスをするシーンで、ええ?と違和感を感じたのでした。別に、話の展開が不自然な訳ではない。でも違和感を感じたのは、それは草壁や先輩がノンケとして描かれてゐるからだと私は思ふのです。
ノンケ?いや、男同士で恋に落ちる訳だから、ノンケぢゃないだらう、同性愛者だらう、と思ふ方もをられるでせう。いや、ところが彼らはノンケとして描かれてゐるんですねー。言ひ方を変へると、ゲイとして描かれてゐない。ゲイ特有のオーラといふか臭みみたいなものが全くなく、ノンケの男性を描くのと同じ様に描かれてゐる、といふ事です。
そして、実はこの事こそ、BLの肝ではないか!と私は感じたのでした。
同性愛者、ゲイ、といった“特別な”“少数者”を描くのではなく、男同士で愛し合ふのが普通の世界、異性愛と同性愛が全く同じ価値を持つ世界を描くのがBLではないか、と。
BLの前史である“やおい“文化では、男性マンガのパロディが主流でした。『キャプテン翼』の様な、男の子同士の友情を描いたマンガを、この“友情”を“愛情”に読み替へて独自の世界つくりあげる、といふもの。ここには明らかに、現実の男性優位社会に対する批評があります。つまり、男同士が仲良くつるんで女性を抑圧してゐる、愛情は男性同士で楽しみ、性欲は女性で処理する、といった男性優位社会に対する批評が、やおい文化にはある。まぁ、パロディといふ手法は、もともと批評性が強いもんですから。
これを最も純化したものがBLではないか。そこには、男同士が仲良くなったら、ごく自然に恋人になる世界が描かれてゐる。
私はここで、その昔、橋本治が、男は男と寝ない限り一人前にはなれない、と言ってゐたのを思ひ出します。これは正にこの事ではないでせうか。
男が“愛情”といふ精神性を男性に割当て、女性には“性欲”といふ動物性を割り当てる、といふ男性優位社会。文明/野蛮、支配/被支配、といふ無意識の割当て、抑圧。これに息苦しさを感じる少女たちが、BLを読むのであらう。だからBLって少女マンガなんだよね。
故に、私の様に無意識のうちに現在の男性優位社会イデオロギーを刷り込まれてしまってゐる人間は、男が極く自然に愛情表現として男にキスしたりすると、ええ?と引っ掛かったりする訳です(女性の場合は癒されたりする)。
つー、事で、男はBLを読まない限り一人前にはなれない・・・とか言ってみます。
たまこまーけっと
TVアニメシリーズ『たまこまーけっと』全12話を観了しました。これは京アニの初のオリジナルテレビシリーズ作品といふ事で、相当に気合ひの入った、凝った代物でした。ちょっと詰め込み過ぎなのでは・・・と思ふくらゐで、一度観ただけでは消化しきれない感パンパン。
京アニ・・・といふか山田尚子特有の実写的な演出とかなりマンガ的に誇張された演出の混交、女子高生たちの日常を描きつつ、それとは無縁な一本のストーリーが密かに展開してゐたり、商店街といふ超ドメスティックな世界に闖入する異界(異国?)からの怪物(ってか喋る鳥)、とか。それら相反するものが渾然一体としてお餅の様に搗かれ、捏ねられてゐる感じ。
音楽の使ひ方も相変はらず上手くて、今回は「星とピエロ」といふレコード&喫茶店が登場。要所要所でレコードをかけて、それがストーリーに陰翳を与へる構成なんですが、このレコードといふのが全てオリジナル!・・・といふのが凄い。フレンチポップやホラー映画のサントラ、ニューウェーブバンドにプログレバンドと、様々なミュージシャンを経歴からレコードジャケットまで全て作り込み、あたかも実在するレコードの様にしてかけてるといふ凝り様。この曲を作ってるのがまたゲイリー芦屋(黒沢清の映画サントラとか手掛けてる人です)って・・・マニアックやのー。
しかし・・・この『たまこまーけっと』の世界が閉じた閉鎖領域であるのもまた事実で、私はしばしば息苦しさを感じました。だって商店街だよ。小さい頃から周りの人はみんな知ってる・・・ってか、親の代も、そのまた親の代からも知ってる、といふ。そら、それは安心感にも繋がるかもしれないけれど、やっぱ息苦しい。まぁ、制作者側はその事には自覚的の様で、多分、わざとさういった閉鎖領域を描いたのであらう。17歳といふ女の子の、大人の一歩手間で最後に微睡む、甘く切なく儚い閉鎖領域。母胎であり、牢獄でもある。
(たまこのお母さんが幼い頃に亡くなってゐるのが、案外重要かもしれません。それ以来、商店街がたまこにとっての母親=母胎となった可能性がある。たまこを守る、母胎であり牢獄である商店街)
それ故、この『たまこまーけっと』といふ閉鎖領域では、決して恋が成就しないのです。もち蔵やみどりのたまこに対する想ひは常に届かず宙ぶらりん。あん子の恋は実りさうになったら、相手の男の子は引っ越してしまふ。そして、豆腐屋さんの恋は、相手が他の人と結婚してしまふ事で、口にした途端に破れてしまふ・・・。ここで、あれ?その豆腐屋さんの想ひ人は結婚した訳だから、その恋は成就したんぢゃないの?と思ふ人も居るでせう。
いや、この人は商店街の外の人と結婚したのです。そして、結婚後は商店街を出てしまふ。この結婚相手の人は登場しません。つまり、『たまこまーけっと』といふ作品世界=閉鎖領域の外の存在なのです。この閉鎖領域では、決して恋は成就せず、みなの関係性は変はらず、ずうっと同じまま・・・。
だからこそ、このテレビシリーズの続編である映画版は『たまこラブストーリー』となったのでせう。閉鎖領域を突き破る話。それの突破口を開いたのはもち蔵で、彼はこの商店街を出て、東京に行く決心を固めた事で、閉鎖領域に穴を開け、見事たまことの間に恋愛を成就させます。
私はこの映画版は公開時に観てゐるのですが、その時はまだテレビシリーズを観てゐなかったにも関はらず、凄く面白くて、見事なもんだなー、と感心したもので、今回改めて見直してみても、やはり見事なもんだなー、と唸りました。今回は、楽しくも息苦しい閉鎖領域を経験した後なので、尚更その閉鎖を突破した時の爽快感が身に沁みました。これは、テレビシリーズ→映画館、といふメディアの変化とも関係あるかもしれません。つまり、外に出ろ、と。
たとへ戻ってくるにしても、やはり一度は外に出る事が必要だ。卵の殻を破ることが(世界を革命するために!)。ドアを開け、向かう側に行く事が。そして誰も戻って来なかった・・・なんてね。
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