2月17日〜2月22日 [etc]
淡路島
諸事情があり、淡路島に行って参りました。淡路島といへば、記紀神話の国産みで最初に産まれた国(異伝はありますが)とされる所。故に、パワースポット的な所が多い島です。せっかくそんな所に来たんだから、パワースポット巡りをするに如くはない、といふ事になったのですが、なんせ我々には足も時間もない。で、淡路島で最もパワースポット巡りに強い!と言はれる鳴門タクシーに頼んで、3時間ほどでパワースポット巡りをして貰ひました。
本当はイザナギ神宮や岩上神社の様な超メジャースポットに行きたかったのですが、我々の泊まってゐた所からそこは遠い、との事で、主に北淡路のスポットを廻って貰ふ事に。淡路島って、でかいんだよなー。
太陽の道
みなさんは「太陽の道」って御存知でせうか。日本版レイライン、とも云はれるもので、大和の檜原神社と箸墓古墳を結ぶ東西線が、東は三重県の伊勢斎宮跡から、西は淡路島の伊勢の森までずうっと一直線に並んでゐて、その線上には多数の神社や遺跡が並んでゐる・・・といふものです。むろん、その線上には特別な力の流れがある、と。古代の人々はどうやってかこの大地の力の流れを知り、その線上に様々な建物を作ったといふ訳。これは1980年2月11日に、NHKが放送した「謎の北緯34度32分線を行く ─ 知られざる古代」といふ番組で一気に有名になったものらしく、この番組以降、一時期日本版レイライン探しが盛んになったとか。
で、まぁ、この「太陽の道」の上にある神社を三つばかり廻りました。
まづは伊勢久留麻神社。ここは境内に、NHKの番組で“西のお伊勢さん”として紹介されました!と、麗々しく彫った大きな石板がドーンと飾ってあります。が、それ以外は人影もなく、寂れまくった風情。そもそも街中にあり、緑もほとんどなくて完全に駐車場と化してゐます。まー、もうブームから30年は経ってゐるからねぇ。それに、「太陽の道」にはすでに反論が出てゐて、そもそもこれらに取り上げられる神社・遺跡を繋いでも、正確には全く直線にはならない、といふ事が今では分かってゐるのです。
地図といふのは、三次元のものを二次元にしてゐるので、どうしたって誤差がでる。で、この誤差を補正してみると、“謎の北緯34度32分線”の上にはほとんど神社や遺跡はなく、その周りに散ってゐるらしいのです。さもありなん。まぁ、レイラインって、さういふのが多いらしいですが。
しかし、だからといって、その神社に意味がない訳では当然ない。次に行った常隆寺は、その伊勢の森がある所ですが、ここはなかなかに良かった。まづ、えらく山の中にあり、行くのが大変。そして、そんな山中にある故か、神聖な気に満ちてゐます。で、その雰囲気にそぐはない「パワースポット」と手描きされた看板・・・。うーむ。
ここの奥の院に登る途中に、例の“伊勢の森”があります。そこからは海が一望できて絶景。さらに奥の院も、激しい風が吹き付けて、石組みの社が鳴動するなど、なかなかに楽しい所でした。
次は舟木石神座。ここは「太陽の道」の終点(?)のひとつで、沈む太陽をここで受ける、と云ひ伝へられてゐる所らしい。いはゆる巨石信仰で、でっかい磐座がありました。
神話の島
淡路島には、ここがオノコロ島だ!といふ所が何カ所かあります。一番有名なのは、たぶん沼島だと思ふのだけれど、そこは遠いので行けず。代はりに絵島へ行きました。ツルツルゴツゴツした奇岩の島で、これがオノコロ島か・・・うん、わかるわかる、言ひたいこと分かるよ!と頷ける所です。
もしここが本当にオノコロ島だとしたら、ここが世界で最初にできた島、といふ事になります。感慨深いのー。次は是非とも沼島の方にも行ってみたい。
この絵島の側に、岩楠神社があります。ここは、イザナギとイザナミがヒルコを産んだとされるところ。このヒルコを葦舟に乗せて海に流し、西宮の浜に流れ着いたのが“ゑべっさん”なので、ゑびす神社もあり、本家本元はこっちかもよ!と大書してありました。うーん、オモロい。
岩楠神社そのものは、巨岩の割れ目に社が挟み込まれた形であるもので、この割れ目が観ようによっては女陰みたいで・・・これはホンマにここでヒルコを産んだのかもしれん、と思はせるものがありました。っつーか、ここが女陰に見えるからこそ、ここを神社にしたんだらうなぁ。
最後は石屋神社。ここは社殿の天井に十二支の浮き彫りつき方位磁石がついてゐる、といふので有名らしいですが、私は「渡哲也」の名前が入った石柱の方が気になりました。ここらの出身らしく、寄進してるんですね。
ここは海沿ひに海に向かって建てられてゐて、春分や秋分の日には鳥居の真ん中から昇る朝日を拝む事ができるよし。それは観てみたい。
淡路島。また来なければなりませんねー。
中二病でも恋がしたい
アニメ「中二病でも恋がしたい」を観ました。これは私がアニメを観始めた頃に、なんでもいいからアニメが観たい!となって、思はず劇場版を観に行ってしまった作品です。この劇場版はテレビアニメ版の総集編的内容でして・・・はっきり言って、テレビ版を観てない人には今ひとつよく分からないものでした。で、いつかリベンジせねばならないと思ってゐたので・・・遂にリベーンジ。といふ訳です。
やー、面白かった!これ、なかなかの名作ですよ。あんな変な劇場版なんて作らなければいいのに・・・テレビ版の良さを台無しにしてる感があります。ラストに向かってジリジリと盛り上げて、ドンっときて、スパッと切り落とす。テレビ版のあの感じがいい。ただ・・・テレビ版でも難がない訳ではない。それはラストで流れるナレーション。あれ、ダメです。あれで、一気にこのアニメの可能性を狭めてしまってゐる。
ナレーションでは、中二病を「自意識過剰」の病とし、恥ずかしいけど愛おしいものでもある、とし、人は誰でも一生中二病なのだ、とまとめる。・・・なんだそれ!誰でも一生中二病なら、それ単なる“普通”だし、わざわざ“中二病”なんて名前をつける必要ないだらうが!・・・かういった、何か言ってる様で実は何も言ってないまとめは、作品を台無しにするからホントやめた方がいい。
確かに中二病は恥ずかしい。でも、実はそれは大した事ぢゃなくて、中二病の問題点は、周りとコミュニケーションがとれなくなる事です。それでは社会生活が送れなくなるし、最悪の場合は究極のディスコミュニケーション=殺人へと至る場合も、ままある(サカキバラセイトとかですね。あと自死も)。では中二病は何が何でも否定すべきか、といふとさうでもなくて、中二病は人を救ふ側面がある。持て余した過剰な自意識や、言葉にできない世間・他人との隔絶感・疎外感を宥め、救ってくれる側面がある。だから多くの人が中二病になるのです。このアニメの主人公の六花も、中二病によって救はれた女の子でした。
で、大抵の人は、中二病を卒業する。それは周りとコミュニケーションがとれる様になる事を意味する。が、それが唯一の採るべき道だらうか。中二病のまま、周りとディスコミュニケーションに至らず、うまくやっていける方法はないものだらうか・・・といふのが、このアニメの包含してゐる可能性。これが、いったん中二病を卒業した六花がまた中二病に戻った意味だと思ふのです。この微妙で繊細な可能性を、あの無難で粗雑なナレーションは壊してしまふと思ふので、やはりあれは断固やめるべきだった、と私は思ひますね。(中二病とは、その可能性が探られるべきもので、無条件に肯定するものではない、と思ふ故)
この作品、続きがある様で、おお!それこそ秘められた可能性が全開するのか!とも期待するのだけれど、何故かどーにも頗る評判が悪い様子。・・・うーむ、不安だな・・・いつか観るとは思ふけど・・・。
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