8月6日〜8月11日 [etc]
台風襲来
今週は台風がやってくるからずーっと雨!といふ予報があったにも関はらず、ちっとも雨なんか降らない。最近はこんなんばっか、大袈裟なんだよ、ただでさへ少ないお客さんがさらに減るから止めてほしい、と思ってゐたら、週末はホントに豪雨と大風に見舞はれました。
おかげで陶器市は中止。六道参りの方も、六道珍皇寺が日曜日は閉めてゐて・・・って、いいの?そんなんで。あの世からちゃんと御先祖さまを迎へないと、お盆にならないやん。わざわざ京都中から集まった老人たちはどうなるのか。まぁ、集まった老人たちが風であの世へと飛ばされないための配慮なのかもしれないけれど、例年でも炎天下に何時間も並ばされて、何人もの老人が道路に倒れてるではないか。似た様なものではないのかな。
なんにせよ、オパールは普通に営業。普通にお客さんが少なく、静かな週末でした。
VIRGO
フランス人の一家が来店したんだけれど、そのうちの一番小ちゃな男の子(5歳くらゐか)が、メニューにないものを注文したいとごねるし、みんなが話しかけても無視してずーっとゲームをやってゐるし、といった感じだったのだけれど、この子、ゲームをしながら何かずっとブツブツ言ってゐる。およそ意味を成さない鼻歌みたいなものなので、私も別段気にしてなかったが、ふとそれが何か分かってしまった。
実はこの時、私はウェイン・ショーターの「ナイトドリーマー」をかけてゐて、その3曲目「VIRGO」に、耳につく「タ〜ラ〜ッタ!」とサックスの音が跳ねる所があるのだけれど、あれを鼻歌で歌ってゐたのだ!「タ〜ラ〜ッタ!タ〜ラ〜ッタ!」と。
いや別にこの子が「VIRGO」を知ってるはずもないし、無意識のうちに耳に入ってきたメロディを繰り返してゐるだけだったのだらうが、ちょっとビックリした。いやー、ウェイン・ショーターって偉大。とか、そんな話ではないか。
ちなみに私は「VIRGO」大好きですけどね。
幻影ヲ駆ケル太陽
「少女革命ウテナ」が貸し出し中でレンタルできないので、代はりに「幻影ヲ駆ケル太陽」といふアニメを借りました。
魔法少女ものは「まどマギ」以前と以後に分けられる、といふ話ですが、では「まどマギ」以後の魔法少女ものはどうなってゐるのか、と思ひ借りてみたのがこの作品。なんでも「まどマギ」以後の魔法少女ものではこれが一番、ってな話を聞いたもんで。
ところが・・・これが結構ビミョーな感じで。
いや、そもそも私は「まどマギ」以前の魔法少女ものなんてひとつも知らないので、通事的な比較とかさういった事はできません。ただ、作品として共時的に較べてみた場合、「まどマギ」の足下にも及んでゐないのは仕方ないとしても、「まどマギ」の到達した地点から10歩も20歩も後退してるとしか思へないのです。
私が思ふに、「まどマギ」の到達した地点は、絶対的な悪といふ分かりやすいものはなく、自分たちの直接闘ふ敵は自分たちの仲間であり、自分たちがその事で傷つき死んでいく事がそのまま世界を救ふ事になる、といふ残酷な世界です。正に出口なし。それは、我々の住む現実社会と通底する所のある残酷さです。この出口なしの状況を、ひとりの少女があくまでこの残酷な世界のルールに則りながら、それを内破する形で解決に持ち込んだ、といふのが「まどマギ」の素晴らしいところで。
それでこの「幻影・・・」ですが、確かに一見、「まどマギ」を思はせる所はあります。それは魔法少女たちの闘ふ敵=ダエモニアが、一般人の成れの果てだといふ所。普通の人々が、激しい負の感情(嫉妬や絶望、怒り、執着など)に囚はれた時、たまたまディアボロス・タロットに取り付かれると、ダエモニアといふ怪物に変身してしまふのです。だからダエモニアは、もともと善良な人であったり、自分たちの友人であったりするのです。そしてこのダエモニアの異形な姿は、魔法少女にしか見えず、一般人には事故や災害の形にみえる(ダエモニアに殺されても、事故や災害で死んだ様にみえる)、といった所も「まどマギ」を思はせます。
しかし、途中でケルブレムといふ名の男が出て来て、彼が負の感情を持った人間に近づき、「なんでも願ひを叶へてあげるよー」と持ちかけて、人々をダエモニアにしてゐた事が判明します。と、なれば、構図は一気に単純になります。つまり、ケルブレムといふ“悪”と魔法少女といふ“善”の闘ひ。単純な勧善懲悪ものの構図です。
さらに、どうやら魔法少女たちに指令を送ってゐる上部組織=レグザリオは、ダエモニアも操ってゐる様で、双方を闘はせる事によってなんらかの利益を得てゐる、あるひはこの世の秩序を保ってゐる、といった事が示唆され、これもまた「まどマギ」っぽいのですが、この作品の中でその正体や意図は明かされないままです。となれば、これは一種の神の様な存在で、そのレグザリオが、自分の手下であったケルブレムがやり過ぎたので滅ぼしておくか、といった感じで魔法少女側に手助けし、ケルブレムを倒させる、といふ解決。これは典型的な“機械仕掛けの神”でせう。
単純な善悪二元論に機械仕掛けの神。どこまで後退してるねん!といった感じです。
ところで・・・実は私はさうは言ったものの、“単純な善悪二元論に機械仕掛けの神”といふ古典的な紋切り型自体は悪くはない、と思ってゐるのです。この単純な構図の中で、魅力的な魔法少女たちが素敵な闘ひを繰り広げてくれれば、それはそれでいい作品だと思ひます。アニメなんだから。娯楽作品なんだから。さういった視点からいふと、「まどマギ」はちょっととんがり過ぎ、前衛的かもしれない。
とはいへ、だからと言って「幻影・・・」が擁護できるかといへば、それはやはり難しい。「幻影・・・」は、古典的紋切り型をやるには、細部が杜撰すぎるのです。紋切り型を活かすには、細部の繊細さ、巧緻さが絶対条件です。それが、この作品には欠けてゐる。
例へば、ケルブレムが人々をダエモニアにする時、彼・彼女の負の感情につけ込み、取引を持ちかける事によって、彼・彼女たちをダエモニアにします。これはこれでよい。「幻影・・・」の問題点は、この基本設定が、話の展開によってコロコロ変はる所です。
まづ、せいら。魔法少女のひとり“せいら”は、ダエモニアになる人間は元々心が弱いんだから同情の余地なし!と心を頑なにしてゐる少女です。その彼女が自分の頑なな心を開く切っ掛けとなったのは、自分が心を寄せてゐた友人がダエモニアになってしまったから。ところで、この友人、なんでダエモニアになってしまったかといふと、自分の無二の親友が不治の病にかかってゐて、それをなんとか助けたいと思ったからです。その子を助けてあげるよ、といふケルブレムの甘言に乗ったのです。しかし、これは負の感情ではない。むしろ他人のためへの自己献身といふ正の感情、あるひは、せいぜい無思慮故の浅はかさでせう。この大事なエピソードの肝心の部分で、ダエモニアに関する設定が変へられてゐる。
次に、ルナ。ルナも魔法少女ですが、ダエモニアになって仲間たちと闘ふはめになります。彼女は負の感情を持ってゐたのか?確かに、持ってゐました。とはいへ、誰もが負の感情を持つし、それだけでダエモニアになる訳ではありません。ケルブレムと悪魔の取引をするくらゐ、強い負の感情を持たないと。が、ルナは基本優しい少女だし、そもそも魔法少女なので、ケルブレムと取引するのはちょっと難しい。そこでケルブレムが採った方法は、ディアボロス・タロットを剣の形に変へて、彼女の身体にぶち込むこと・・・って、おいおい!そらないだろ。
むろん、いくらでも言ひ訳はできるのです。“実は”別に負の感情を持ってなくても自分から取引を望んだらダエモニアになれるんだよ、とか。“実は”魔法少女は特別だからかういったやり方でダエモニアに変へるのもありなんだよ、とか。そら、さうでせう。ディアボロス・タロットにしてもダエモニアにしても、そんなものはないんだから。作者の創作物なんだから。いくらでも“実は”で変へる事ができる。しかし、そんな事をしたら、作品はムチャクチャです。悪い意味での御都合主義とはこの事をいふ。
作者は、どんなに難しくても、頑なな“せいら”が心を許すくらゐの人間が負の感情に負ける状況を考へなければならない。心優しいルナが自発的にみんなを裏切る様なストーリーを考へなければならない。それができて初めて、我々は「おお」と感心し、感動する事ができるのです。
なんだか「幻影・・・」に厳し過ぎたかもしれません。つい、「まどマギ」と較べてしまふのが良くないのかも。とはいへ、私も映画を観る時間を削ってアニメを観てる訳だから、それなりのものが観たい訳です。
うーん、やっぱ「ウテナ」か。
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