4月8日〜4月14日 [etc]
引退狂言
住大夫の大阪での引退狂言、22日に床前のばっちりの席をとってゐたんだけれど、ホドロフスキーの映画試写&公開タロットリーディングが22日に決まったため、泣く泣くその日の文楽はあきらめる事に。が、やはり引退狂言は観て(聴いて)おきたくて、8日に席をとりなおして行って参りました。まぁ、後ろの方の席だけど、しゃーない、といった感じです。
住大夫の引退狂言は「菅原伝授手習鑑」のうち、「櫻丸切腹の段」。これ、住大夫が病気で倒れる前に一度聴いてゐるのですが、その時は周りの絶賛の声の中で、ひとり、「さう?」ってな感じで・・・。まぁ、その頃の私には住大夫の良さが分からなかった、と言ってしまへばそれまでなんだけど、少し言ひ訳させて貰ふと、まづ、この狂言、地味なんだよね。櫻丸が出て来て、奥さんに切腹しなければならない理由を説明して、お父さんが出て来てそれを諾ひ、切腹が行はれる、といふそれだけなんだもの。あと、やっぱ櫻丸の切腹に対して、根本の所で納得がいかない想ひがある、といふのもあります。それで、この狂言自体に対して乗り切れないものがあったのも一因かと・・・。
なにも私は、封建道徳や忠の強調が納得いかないなどといふ野暮を言ってる訳ではないですよ。例へば「寺子屋」なんかは私は大好きで、傑作狂言だと思ってゐます。ここで松王丸は自分の子供を主君の子供の身替はりに差し出します。このこと自体はとんでもない事だと思ひますが、それでもそれで実際に主君の子供は救はれるし、自らの汚名もこの行為で雪ぐ事ができるので、それはそれとして納得できる。が、櫻丸の切腹では、事態はなんら好転しません。自らが善かれと思ってやった行為を敵に利用され、主君に迷惑がかかった、その事を詫びるために腹を切る、と。・・・う〜ん、それって単なる自己完結ぢゃね、と思ってしまふのです。
むろん、文楽にせよ歌舞伎にせよ、(少なくとも名作とされるものは)当時の封建道徳の犠牲になった庶民の悲劇を描くものです。だからこそこれらは庶民の文化と呼ばれる訳ですが(だから、海老蔵には源氏なんてやって欲しくないんだけどね)、さういった意味では櫻丸の切腹も分かります。が、やっぱねぇ、ここで腹切るのは意味がなさすぎるよ・・・。
それはともかく、今回の「櫻丸切腹」は大変楽しめました。住大夫の声はいつもより力強く感じましたし、なにより丁寧に丁寧に語っていく所にしみじみときました。松王丸の声が少し変かな?とは思ひましたが、そんな所も含めて、とても良かったです。
やっと、住大夫の良さが分かってきたといふのに、引退。うーむ、残念なり。
メタ・バロンの一族
22日の試写会に向けて、買ったままで放り出してあるホドロフスキー関係のものを消化しておくか、と思ひ、BDの「メタ・バロンの一族」を読みました。これはホドロフスキー&メビウスによる傑作BD「アンカル」のスピンオフ作品で、原作ホドロフスキー&作画フアン・ヒメネスによるBD(フランスのコミック)です。
「アンカル」に出てくる宇宙最強の戦士メタ・バロンの祖先たちを描く一大サーガといった内容で、故に神話的な作品です。宇宙に君臨する皇帝と、それに忠誠を誓ったメタ・バロンの一族。そしてそこに流れる血の幻想。メタ・バロンの一族は、必ず血を分けた子に、厳しいイニシエーションを経て、自らの後を継がせます。
この宇宙大の秩序とそれに対する忠誠&血の幻想、といふのは、現代の価値観からみるとアナクロニズムです。が、それがあるからこそ、物語は面白くなる。考へてみれば、それは文楽&歌舞伎でも同じで、封建道徳といふ制約があるからこそ、人々はそこで板挟みになり、苦しみ、様々な悲劇や喜劇が生まれる。いはゆる物語を面白くする要諦かもしれません。
実際、この「メタ・バロンの一族」はとても面白い。むろん、アナクロニズムはその通りなんですが、一族のサーガといった神話的内容&ロボットによってそれが語られる、といったメタな体裁をとる事によって、そのアナクロニズムはプラスへと転化してゐます。
そして、ラストに至って、秩序と忠誠&血の幻想といふアナクロニズムを一気に葬り去る・・・やっぱさうこなくっちゃね!
あぁ、早く22日が来ないかなぁー。
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