魔法の映画 [映画]
あけましておめでたうございます。
本年、2014年1月1日は、「劇場版 魔法少女まどか★マギカ<新編>叛逆の物語」で幕を開ける事ができました。
営業時間を早めに切り上げ、MOVIX京都に21時に駆けつけて、通算10回目の鑑賞。とても幸先の良いスタートです。
10回、といふのは、我々(私とトモコ)にとって、ひとつの節目でありました。最低、10回は「まどマギ」を劇場で観なあかんやろ、と。
これには荒俣宏がいふ様な「お汁粉は一杯でも美味しいけど、十杯目からが真のお汁粉の美味しさ」といふ意味もありますが、それだけではない。そもそもいくら美味しい(面白い)からと言って、それだけで10回も劇場に通へるものではない。
まぁ、マニアの人たちの間では、様々な事を確認するために何度も通ってゐるパターンが多い様です。例へば、魔女文字を解読したり、偽街の子供たちの数を数へたり、マミさんの施した仕掛けを探したり・・・とか。むろん、さういった事にも意味があるし、我々も多少それに近い事もやってをります。
が、それだけでもない。我々が最低でも10回は・・・と、劇場に通った理由。それは、この映画が魔法の映画だからです。
魔法についての映画、ではありません。魔法の映画、です。正に、この映画が魔法なのです。これについては、ちょっと説明しがたい所もありますが(なにせ魔法ですから)、せっかくですから、少し、説明いたしませう。
まづ、構造的に言って、この映画は魔法の形式をとってゐます。迷妄と主観に囚はれた人間が、その事に気がつき、それを打破し、その事によっていったんは自らを解体して堕ちる所まで堕ち、再生して、世界を再編する。これは正しく魔法の構造です。ここでいふ“魔法”は、西洋の魔法のこと。つまり錬金術とカバラの事です。この映画を観る(=体験する)ことは、この構造を生きることになります。
しかし、そんな構造のお話など、いくらでもあるんぢゃないか?といふ疑問を持つ方も居られるでせう。さう、これはある種、普遍的な構造でもあります。例へば、イニシエーションを中心にした成長譚など。だから、この映画の事を、ひとりの少女の成長物語として読む人も居るでせう。
が、我々はさうは読みません。魔法の映画として読みます。理由はいくつかありますが、まづは直感。この映画は魔法である、といふ直感。実はこれが一番大事。で、次に図象。この映画には、錬金術やカバラの象徴が埋め込まれた図象が多く観られます。私とトモコが、この映画の制作者の中に魔法実践者、あるひは魔法修行者が居るのではないか・・・と疑ふ程です。それほど、あからさまにある。つまりは、この映画は一編の錬金術書として作られてゐるのではないか、といふのが我々の説なのです。
では、その図象とは何?と問はれるかもしれません。しかし、それは教へる訳にはいきません。そもそもさういった象徴は自分で見つけるものです。自分でみつけなければ意味がない。自分でみつける、といった作業が、そのまま魔法修行=錬金術となるのです。だからこそ、我々は劇場に通ひつめなければならないのです。
錬金術は自ら実践しなければ意味がない。知識だけではどーにもこーにもならないものなのです。
私は昨年、「アートとしての映画の復権」といふ事を唱へました。が、これはもう少し踏み込んでいふと、「魔法としての映画の復権」といふ事です。魔法としての映画、これはある。魔法としての小説、魔法としての音楽がある様に。
昨年はカラックスの「ホーリーモーターズ」といふ魔法としての映画の傑作が現れたので、些か興奮してゐたのですが、まさか年末にこの様な大爆弾が控へてゐやうとは・・・。
そして本年。ホドロフスキーの「リアリティのダンス」といふ大本命がやって来ます。今から、興奮を抑へる事ができません。
それまで、我々はできるかぎり「まどマギ」を観るつもりです。幸い、上映期間が延長された事ですしー。
今年は凄い年になるでせう。
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