三島事件 [映画, 読書・文学]
前回、若松孝二監督の「11.25 自決の日」について書いた時に、三島事件に関するこの作品の解釈は了とするけれども、自分の考へはまた別、といった事を書きました。それはその通りなんだけど、若い頃からの三島ファンとして、また“元・右翼と呼ばれた男”として(“元”の多い人間だな、我ながら)、些かの誤解を招きかねないと思ひましたので、三島事件に関する私の考へを書いておきたいと思ひます。
私は、三島由紀夫は、基本的にロマンティックイロニーの人だったんぢゃないか、と考へてゐます。確かに、日本におけるロマンティックイロニーの代名詞の様な太宰治に対する嫌悪を表明してゐますし、故にロマンティックイロニーの無限否定の中に、何かを持ち込まうとはしてゐたとは思ひますが、やっぱ三島の中には信じるものなんて何もなかったのではないか。それが「豊穣の海」に於ける衝撃のラストシーンに現れてゐる、と私は考へるのですが、それならなんで三島はあんな事件を起こして自死したのか。・・・って、いや、それは当然の事でして、ロマンティックイロニーの人は自死するもんなんですよ。元祖のソクラティスから太宰治に至るまで。
三島は、あの事件で訴へた様な右翼の大義だとか右翼革命の意義だとか、そんなものはちっとも信じてゐなかったと思ひます。自らが全く信じてゐないもののために死ぬ、といふのがロマンティックイロニーの本道だからです。
三島は、知性ゼロで輝くばかりの健康な肉体と行動力に溢れた青年を理想像として描き続けました。知性に汚されてない分、その青年は倫理的にも高潔である、といった描き方です。しかし、現実にはそんな事はあり得ません。知性に裏打ちされてゐない倫理は、簡単に堕落します。むろん、そんな事は三島はよく分かってゐたはずです。それでも敢てそんな青年像を理想として描く事が三島のイロニーだったのでせう。
しかし、そのイロニーがバランスを失する時が来ました。森田必勝の登場です。森田は、三島が描いてきた理想の青年像の、現実に於けるパロディーの様な存在だったと思ふのです。
私は以前から、あの事件の青写真を描いたのは森田必勝ではなかったか、と考へてゐました。三島は、現実の事件を元に、それを換骨奪胎して作品を造り上げるのが得意でしたが(「金閣寺」「青の時代」「宴のあと」など)、あの三島事件も同じ様なものではなかったか、と考へてゐたのです。
若松監督の映画では、その辺りが示唆されるに留まってゐたので、あー惜しい!と思った・・・といふ話は前回書きました。なんにせよ、三島は森田と出会った事によって、自らの全く信じてゐないもののための死に向かって歩み始めたのだと思はれます。ソクラテスが毒杯を呷ったのと同様に。
この様に、あの事件に対する解釈は、若松監督作品と全く違ふ私ですが、それでもあの作品は面白かった。解釈の違ひが気にならなかった理由のひとつとして、井浦新の存在があります。とにかく新の演じる三島が、全く三島に似てゐない!これが、実は良かった。別物として観られましたから。若松監督も、物真似ショーにする気はない!と言ってをられましたから、このやり方は成功でせう。若松監督も、あの事件を完全に換骨奪胎して、自分の作品として提出してゐるのです。
それにしても、若松監督の作品には敬意を払はざるを得ません。権力を打倒してやらう!といふ意志に満ちてゐるからです。今の様に日本が腐りまくって救い様もなくなってゐる時には、尚更かういった作品が必要でせう。私は断固支持します!
といった事とは別に、長年の三島ファンとして、あの事件に対する自分の見解を表明しておきたいと思ひましたので、この文章を書きました。
お粗末さまです。
Comments
投稿者 kk : 2012年07月19日 17:21
三島由紀夫については、彼の持つ文学的な色合いと、それとはまた別に彼が持つ政治や国家観を混同するのは大間違いですよ。
三島由紀夫が危惧した日本のニュートラル化はかなり具体的なものだったし、彼の国家観や天皇制度への考え方などは別にロマンティックロイニーじゃ全くないです。それこそ彼の自決とやらの死に方しか見れてない。彼の最後の死に方と小説の色合いだけを見てロマンティックイロニーだ!なんていうのはあまりに浅はかすぎる。あの事件で信じるものはなかった?ちゃんとありますよ。日本をどうしたいか、そのために何をするべきか、それがだめならどうゆう覚悟を持たせるか、最後も三島由紀夫の自決による手段も警告も、すべて意味はあります。ロマンティックロイニー?そんな受け取り方をしてほしくてあの覚悟を日本国民と自衛隊に見せ付けたとお思いか??
投稿者 元店主 : 2012年07月20日 01:32
kkさん こんにちは!
熱いコメント、どうもありがたうございます。
kkさんが、三島を純粋な憂国の士だと考へてをられる事は分かりました。むろん、さういった考へも十分ありうる事でせう。
ただ、kkさんがさう考へる論拠、また私の考へが間違ってゐると判断する論拠が、どちらも示されてゐないので、私としても返事のしやうがありません。
私としては、kkさんの考へを尊重致します、としか言へません。
失礼致しました。
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