真理先生 [読書・文学]
本を読みたいのに、読む時間がない。と言ひ続けてもう何年になるのか。
学生時代ならともかく、社会にでて働き始めると、本なんか読む時間はなくなる。といふのが世の常なのかもしれません。
私は、本を読んで音楽を聴いてゐれば幸せな質なのですが、そのどちらも満足にできない、となれば、薄らと不満が溜まっていく訳で、それが10年以上続くと、結構つらいことになったりもします。
さういへば私が会社を辞めて、新しい仕事を何にするかと悩んでゐた頃、当時はまだ(世間的に)無名であった内田樹先生から「大学教師はいいよー。好きなだけ本を読んだり音楽を聴いたり映画を観たりできる」と言はれ、それはいいかも!と思って大学教師に憧れた時期もあったのですが、幼少の頃から“先生”といふ人種に馴染めなかった私がそんなものに成れる訳がなく、結局は一日12時間以上働く3Kブルーワーカーであるカフェといふお仕事をやる様になってしまひました。
むろん、私はカフェといふ仕事を気に入ってゐます。自分がカフェを好きな事もあって、自分の好きな事で他人を喜ばす事ができるのは、嬉しいことです。音楽も聴けます。本だって、ヒマなら多少読む事ができます。実際、最近は結構読むことができる様になって、あらメデタヤ・・・、といふ訳ではないのが、やはり辛いところです。
いくら本が読めるからといって、店がヒマ過ぎるのも困りもの。本を読みながらでも、お客さんが来ないなー、と心の片隅では常に気になってゐますし、掛かってくる電話は業者さんからの支払ひの催促ばかり、となれば、ストレスも溜まります。本を読むのは単なる逃避ではないのか。と、読書に対して軽い罪悪感を抱いたりして。
ああ、生きていくのって大変だなぁ、死ぬのは簡単なのに。
などと、すぐ思ってしまふのが、また困ったものです。これでは、軽い鬱ではないか。
しかし、ピート・ラ・ロカのドラムと、チック・コリアのピアノの絡みなんかを聴いてゐると、ああ、生きていくのは大変だけど、やっぱ素晴らしいや、と気分があがってきたりするのです。音楽の力は偉大だなぁ。
ところで、本を読む事は逃避なのでせうか。私は、読書とは悪徳である、といふ抜き難い確信があります。むろん、本を読む事が仕事の人たちが居て、それらの人たちはまた別なのでせうが、普通の人間にとっては、本ばかり読んでゐたら、碌なことにならない、と。
それでも、本を読み続けるのは何故なのか。
それは、私が考へるに、読書は“真理”を開示する事があるからです。世の中には、真理なんて必要ない人がたくさん居ます。むしろ、そんな人たちの方が多いかもしれません。が、中には、世の中に充満してゐるウソっぽさが堪へ難く、真理の開示によって辛うじて救はれる人間も居るのです。
私がテレビを決して観ないのは、それがウソっぽさの塊で堪へ難いからですし、会社を辞めたのも、そこでの仕事がウソっぽく感じられたからです。“先生”といふ人種に馴染めないのも、素晴らしい先生がたくさん居るのは重々承知の上ですが、やはり全体としてそれがウソっぽく思へてしまふからです。“先生”と呼ばれる人たちの出す、ある種独特の雰囲気が一寸・・・・・・・だったりするのです。
などと書けば、なんか自分がカッコ良いみたいですが、そんな事は全くありません。青息吐息、醜態を晒してなんとか生きてゐる、といふのが実状です。それでも、“真理”に触れることで、いささか力を得て生きてゐる。
・・・ま、こんな事は書かない方がよかったかもしれませんが、思はず書いてしまったのは、根本敬さんの「真理先生」を読んだからです。根本さんは、マンガでも文章でも、常に真理を描いてゐます。私はそれを読み、いつも、これであと何年かは生きられる、と思ふのです。
「でも、やるんだよ」
この言葉を何度呟いたことか。
それにしても、お客さん、来ないなぁ。(でも、やるんだよ!)
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