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2008年01月16日(Wed)

雷神不動北山櫻 歌舞伎

 東京滞在二日目。今日は新橋演舞場で『雷神不動北山櫻』を観てきました。

 この『雷神不動北山櫻』は通し狂言でして、では“通し狂言”とは何か? と、申しますと、ひとつのお芝居を最初から最後までやる(通しでやる)といふものです。つまり、普段は歌舞伎はひとつのお芝居を最初から最後までやらないんですね。面白い、長い間に人気の定着した場面だけをやるのです。だから、通常歌舞伎を観に行きますと、三つくらゐお芝居の題名が並んでゐるんですが、これは全てあるお芝居の一場面です。とはいへ、長い間に洗練されてきてゐますので、それぞれの場面があたかも短編小説の様に完成されてゐて、これはこれでいいんです。

 で、かういつた形式での上演を“見取狂言”と言つたりするのですが、これに対してお芝居を最初から最後までやるのが“通し狂言”。この“通し狂言”といふのは、今でもチョクチョクやられてゐる様ですが、基本的にあんまりやらない様です。やはり、面白い場面だけが洗練を重ねてゐますので、全部やると退屈、といふ事情もあるのでせう。そもそも真の“通し狂言”をすると、一日では上演が終はらない、といふ事もあります。現代ではそんな悠長な上演はほぼ不可能ですので、今やられる“通し狂言”は、適当に長さを縮めたものとなつてゐる模様。ぢやあ、そんな通し狂言をわざわざやる必要はあるのか、と私はウノピョンに問はれた訳ですけれど、私はそれに対してかう答へました。

「まー、いくら場面が洗練を重ね、完成されたとはいへ、場面は場面。部分は部分。全体をみて、全体の中で捉へ直すことによつて、より深く理解される事もある。歌舞伎といふのは古典だから、勉強を重ねるとそれだけ深く味はうこともできる様になつたりするものなんではないのかなー。かしこ」

 そんな訳で、今回は市川家のお家芸である『歌舞伎十八番』のうち、『鳴神』『毛抜き』『不動』の三つを含む『雷神不動北山櫻』の通し狂言。それを市川家の御曹司、海老蔵がなんとひとり五役でつとめる、といふ、成田屋贔屓の私としては狂喜乱舞の芝居。存分に堪能いたしましたー!

 ……ところで、市川海老蔵。生意気なボンボンキャラですから、歌舞伎ファンの間にもなかなかに反発心が瀰漫してゐる様で、今回の芝居でも「ひとり5役!」といふのに、「凄いなー、さすが海老蔵!」と感心するのは私の様な成田屋贔屓、さうでない人たちの間では「なにイチビッてるねん」といふ声も結構きかれました。酷いのになると、「やはりアホやな」といふのまでありました。確かに、海老蔵はアホかもしれません(私も、素の海老蔵を映像などでみると、さう思ふ事があります)。が、パフォーマーとしての力量、といふかオーラが圧倒的でして、やはり将来歌舞伎界を担ふのはこの男だらう、といふ確信があります。

 そもそも私はセリフ回しがどーだとか、演技がこーだとか、さういつた事にはそれほど興味がないんですよ(所作には興味あり。それでいふと、海老蔵は良いのと悪いのの振れ幅が大きい様な気がします)。一番重視するのはパフォーマーとしてのオーラです。音楽でもさう。演奏や歌がうまいとか、そんな事より、ソウルがどれだけ迸つてゐるか。小説や映画なら、ウェルメイドな作品より過剰に何かが突出したものを評価します。故に、海老蔵の存在感の突出の仕方は魅力的でたまらないんですよねー。

 今回の芝居も、まー、芝居としてみれば難は多々ありました。が、それらも含めて、非常に面白かつた。また、この芝居を経て海老蔵が確実に成長するだらう、と思ふと、それもまた嬉しい。さういへば、海老蔵は歌舞伎十八番を全てやつてみたい、とも言つてました。歌舞伎十八番は、全て現存する訳ではなく、すでに長くやられてゐなくて、今やどんな芝居なのかよく分からなくなつてしまつたものもあるんですね。それを全て復活させて、やる、と。うーん、かういつたバカな(?)ところがたまらなくいい。選ばれた人間だとしか云いやうがない。これからの海老蔵がますます楽しみです。

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