恋人たちの失われた革命 [映画]
東京都写真美術館ホールにて『恋人たちの失われた革命』フィリップ・ガレル監督(2005年)を観ました。
ゴダールの後継者と呼ばれ、現在フランスで最も妥協なき芸術派の映画監督フィリップ・ガレル。そのガレルが描く1968年パリの5月革命。モノクロで182分。主演は息子のルイ・ガレル。と、聞けば、もう強烈に面白さうなのですが、普通に臨めば確実に爆睡する、と確信いたしましたので、同美術館で行はれてゐた「細江英公展」を早めに切り上げ、椅子で1時間ほど仮眠をとつてから映画に臨みました。
さて、結論から言ひますと、これがまたヒジョーに、面白かつたのです。ガレルの映画は、今までに4、5本観てゐますが、その中で最も面白かつた。革命と恋愛の敗れ去る様を描いてゐるのですが、革命と云ひ、恋愛と云ひ、どちらも美しい幻想です。幻想は必ず現実に敗れるもの。が、若者は狭量で愚かですからその事に気がつかず、愚行を重ねます。それが青春といふもので、だから青春は愚かでバカバカしくみッともないものなのですが、故に美しい、とも言へる。その事を、ガレルは克明に描きます。
バリケードの中、物の燃える音を聞きながら、何もせずジッとしてゐる。思考停止の表情。時おり石を投げる奴がゐて、間欠的に罵声が響き、行つたり来たりがある。退屈です。また、恋人と戯れあふ。散歩したり、手を合はせたり、喧嘩したり、笑つたり、泣いたり。パーティー、ドラッグ、セックス、アート。退屈です。マトモに観ればどうしたつて退屈な事柄を、退屈そのままに延々とガレルは写していきます。私の横で寝て居るトモコの見方の方が正しいのでは? と、思へる様な退屈さです。が、その退屈さを、飽きもせずに見つめてゐると…実際私は一睡もせずに凝視し続けたのですが、この退屈さが非常な美しさとなつて見えてくる瞬間があるんですねー。これこそが青春であらう。いや、人生かもしれない。少なくとも、これこそが映画だ。ハリウッド映画なんて糞だ! と、見事な錯覚へと私を導いてくれました。静かで、魂に沁みる錯覚。
いや、しかし、冗談ではなく、この様な映画をたまに観る事は、精神衛生上大切なのではないでせうか。さうしないと、窒息してしまふ。さうではありませんか? さうでもない? いや、これは失礼しました。…んー、でも私なんかは、かなりこの映画によつて生き返りましたけどねー。
さう言へば、この映画を観たといふウノピョンから、ウノピョンはガレル初体験だつた様ですが、「ゴダールの継承者といふけれど、どこら辺りがさうなのか、サッパリ分からなかつた」といふ質問が寄せられました。それに、ここで答へておきませう。
私が思ふに、なんと言つても音楽の使ひ方でせう。ソニマージュといふぐらゐで、ゴダールの映画では映像と音楽の組み合はせが重要なのですが、ガレルの映像+音楽の使ひ方は、完全にゴダール流儀です。むろんゴダールが主にクラシック音楽を使ひ、対してガレルはニコやキンクスといふポップミュージックといふ違ひはありますし(あ、もちろん、主な音楽はジャン=クロード・ヴァニエです)、ゴダールほど狂つた音楽の使ひ方はしてゐませんが、突如として映像を断ち切る様な音楽の挿入は、やはりゴダール流でせう。制度化されたものを破壊し、覚醒を促す意志に満ちてゐます。
「でも、同じく68年の学生叛乱と恋愛を扱つたゴダールの『中国女』とかは、全く感傷がなくてそこが凄いと思つたんですけど、ガレルのこれは感傷的ぢやないですか? ボクは感傷的なものがどうも苦手で…」
なるほど、ウノピョンはこれを感傷的ととりましたか。ふむ、微妙ですね。私は全く感傷的とは思はなかつたんですが。
確かに、ゴダールのハッチャケタ気狂ひ振りに較べたら、ガレルは随分と抑制されてゐます。しかし私はそこに、静かなる狂気の様なものを感じますけどね。『恋人たちの失われた革命』に漂ふのは、感傷といふよりむしろノスタルジーではないでせうか。ノスタルジーといふのは、限りなく狂気に近いものですから。
なんにせよ、2007年・平成19年・皇紀2667年の映画初めを、この様な作品で出来た事を幸せに思ひます。
Comments
コメントしてください