責任2 [憂国, ウメドン]
昨日の続き。
なんでテラリーのゼミ仲間が、「自分のやつた事の責任は自分でとるべきだ」といふテラリーの主張に反発するのか。それは多分、チョイと前に流行つた「自己責任論批判」の悪影響ぢやないか。
つまりーーー小泉が出てきて、規制緩和をすすめ、新自由主義的な政策(?)を展開するに従つて、改革に伴ふ「痛み」を「自己責任」の名の下に庶民に一方的に押しつける、といふ事態が横行するやうになつた。これに対する批判が「自己責任論批判」だ。もちろんこれには正当な一面があつた。日本は消費者保護とかが甘いからね。法整備がキチンとできてゐないと、「自己責任」とか問へないだらう、本来。本人の責任でないものまで「責任」と言つて押しつけるのは、をかしいからな。
しかし、やはりこの「自己責任論批判」にも陥穽があつて、どうも「福祉国家論」に傾きがちな所があつたんだなー。つまり、責任を国家に押しつける、といふこと。こんなの、要するに「自己責任論」の裏返しでせう。テラリーのゼミ仲間は、ここに足をとられてゐるんぢやないか。自己責任=政府に関係ない負担を押しつけられる! 弱いものイジメだ! とか、感情的に思つてゐるんぢやないかな。でもそれでは同じ穴の狢だから。真の「自己責任論批判」は、テラリーの言ふ通り「自分のやつた事の責任は自分でとる」といふ理論を貫徹すること。つまり、「他人の責任は他人にとらす」といふ事だよ。自分たちの失政を庶民に(増税といふ形で)押しつけるなよ! ッて事だな。それに、自分の分の責任を他人にとつて貰つてゐたら、結局自由を失ふよ。自由には責任が伴ふ。そんなの、当たり前ぢやないか。な、ウメドン。
「いやー、オレ、そんなん、しんどさうでイヤやなー。も つと楽で楽しいのがいい」
うーん、ぢや、ウメドンは『すばらしい新世界』by ハックスレーに行つて下さい。「自由」の代はりに「幸福」と「安逸」があるよ、そこには。
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