責任 [憂国, ウメドン]
テラリーが大学院のゼミでのディスカッションの最中に、ちやうど話題が「自立とは何か」といふものになつたので、「自立とは、自分でやつた事の責任は自分でとることです」と発言した所、他のゼミ生たちから非難の嵐を浴びたさうだ。
「『そんなのは強者の論理だ!』『個人主義だ!』『責任をとれない人だつて世の中にはゐるんだ!』とか言はれて、もの凄く反発されたんです。訳が分からない!」
はは。ま、みんな自分が責任をとりたくないだけぢやないの。今の日本で大学院に行く人ッて、ごく一部の人を除いて、大体がモラトリアムだらうから。自立したくない、でもそれは言はれたくない、ッて感じだらう。
「あげくの果ては教授まで『みんな依存し合つて生きていけばいい』とか言ひだすんですよ。で、ボクが『責任は誰がとるんですか』と訊けば、『さういふ社会では責任は生じないんだよ』とか言ふんです。どう思ひますか?」
うん? よく分からないな、それ。たとへば、誰かに借りたものを、壊したり失くしたりしたら、そこに(損害を賠償する)責任は生じるんぢやないか? それとも、そんな場合は『そんな事に拘るなよ!』とか言つて、有耶無耶にするのか? 気持ち悪いな。そんな社会、成立しないと思ふけど。
などと話してゐたら、そこにウメドン来店。おお、ウメドン。ウメドンは、自分のやつた事の責任は自分でとるべきだと思ふか?
「ええ、まァ…。でも、オレには無理です」
無理?
「責任はとれません」
な、なんで?
「だつて、そんな力、ないですもん。」
そんなら、もし失敗をしたり、誰かに迷惑をかけたりしたら、ウメドンはどうするんだ?
「誰か、他の人に責任を押しつけます。誰に、どうやつたら責任を押しつける事ができるか、ッて事だけを考へてますから」
うーむ、最低な奴だな。
「でも、仕方ないんですよ。そんな力ないし。力のある人が何とかしたらいいぢやないですか」
むむむ…。あ! 分かつた! テラリーのゼミ仲間がなんでそんな事を言ふのか! それは…(明日に続く)
Comments
投稿者 バブー : 2006年06月07日 18:32
> うん? よく分からないな、それ。たとへば、誰かに借りたものを、壊したり失くしたりしたら、そこに(損害を賠償する)責任は生じるんぢやないか? それとも、そんな場合は『そんな事に拘るなよ!』とか言つて、有耶無耶にするのか? 気持ち悪いな。そんな社会、成立しないと思ふけど。
尊皇を唱え、日本という国を愛する店主が、どうしてこのような浅薄極まりない西洋モダニズムに毒されたお考えをお持ちなのですか?
投稿者 店主 : 2006年06月08日 04:01
バブーさん こんにちは!
あれ?さうですか?私は「自分のやつた事の責任は自分でとる」といふのは日本人の持つ美質のひとつだと考へてゐますが。だつて、西欧人とか自らの過失をなかなか認めないぢやないですか。日本人なんて、やつてない事の責任までとろうとしますよ。ッて、これは問題か。
あと、「自分のやつた事の責任は自分でとる」といふのは、簡単に言へば「約束を守る」といふ事になると思ふのですが、日本人は約束を守る事に非常に誠実ですよ。なにしろ、日本は法整備が全くなつてゐないのに、これだけ資本主義が成立してゐるのは、日本人の「約束を守る」といふ美質のおかげ、とまで言はれてゐますからね。日本人の借金を返す率ッて、外国に較べて凄く高いらしいですよ。
バブーさんは何故「自分のやつた事の責任は自分でとる」といふのが浅薄な西洋モダニズムに毒された考へだと思つたのでせうか。後学のため、その論拠を教へて貰へれば嬉しいです。
投稿者 バブー : 2006年08月03日 19:49
コメントいただいてるのに気づかずレスが遅れてしまいました。申し訳ありません。
店主のご意見と本質的には変わりないと思うのですが、私は「連帯責任」の文化こそが日本の最上の美徳と考えています。それこそが日本固有の美意識であり、日本という文化を古来育んできた尊いものではないでしょうか。
西欧の場合は近代的な「自己」の概念文化が成熟しているので、自らの過失をなかなか認めないのも、法治国家においては「自己責任」の範囲は近代法によって明確化されることを考えれば当然のことと思われます。「自己」も「責任」も近代法が定義するのだという手続きが徹底されていますから。
日本人が借金を返すのは自己責任というよりも、家族や自身の帰属する共同体に対する連帯意識の表れとは言えませんか?
今日の日本で、西洋モダニズムの「個人」という概念や自己責任という思想文化の徹底を声高に叫ぶ人々は、サッカー日本代表を応援しない人を非国民呼ばわりする愚衆等と一緒で、最も自身に「責任」を引き受けない連中だと思います。
この「責任」という意味を、「自己」という輸入概念と「連帯」という日本文化の狭間でそれぞれ履き違え、いやむしろ現在の日本におけるそれらの意味の曖昧な概念状況に甘え、それを利用し、自身の責任をうやむやにしたまま無責任な態度を繰り返している輩ばかりではないでしょうか。
もちろん「連帯責任」の文化も、時代や社会状況の変化を受け、常に批判にさらされより良いものに変革していく必要があります。ですから現在、日本における「責任」について議論するなら、「自己責任」ではなく、「連帯責任」に立ち戻って思考するべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
投稿者 店主 : 2006年08月04日 07:09
バブーさん お返事ありがたうございます。
確かにバブーさんの言ふ通り、「自己責任」や「個人」を声高に叫ぶ人々が、全く責任感にも個人感覚にも欠ける、といふ事実は往々にしてありますね。それはやはり、一神教の伝統がなく、“個人”といふものが確立して居ない(個人といふ概念がそもそも理解されて居ない)日本における、欠点なのかもしれません。
しかし、私は幼い頃から感性的にも実存的にもマイノリティであり、集団行動が苦手で、ひたすら「同調圧力」「マジョリティの専制」と戦ひ続けてきた人間ですから、どうにも「連帯責任」といふ概念には抵抗があるのです。だから、同じく「無責任」といふものをなんとかするにしても、「自己責任」「個人主義」の徹底をはかる方から攻めていきたいのですね。
例へば、現在の日本において「負け組」となつた人たちを、負けたのは自己責任だから、といふ理由で放置する政策を小泉政権はとつて居る様ですが、これはをかしい。全ての国民に、安全で快適で豊かな生活を保証するのが政治家の仕事な訳ですから、こんなのは自分の仕事・責任を放棄した「無責任」に過ぎません。だから政治家の「自己責任」をもつと追及して、「負け組」「極端な格差社会」をなんとかする様にもとめる。といふ具合にです。(バブーさんなら、極端な負け組を生み出したのは社会全ての「連帯責任」なので、勝ち組を含めてみんなでその責任をとるべきだ、といふ発想になる訳ですよね?)
拠つて立つ所は違ひますが、目指す所は同じ様な気がします。両端から攻めていつて、いつか真ん中で会へればいいな、といふ気がします。
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