マッドメン/ピッチパーフェクト/戀 [etc]
5月27日〜6月1日
マッドメン
文藝別冊のムック「諸星大二郎 マッドメンの世界」を読みました。
私がパプアニューギニアのマッドメンを題材に採ったマンガ「マッドメン」を読んだのは、もう30年ほど前の話。なんで今頃マッドメンなんだらう・・・と思ってページを捲ると、どうやら作者の諸星大二郎は当時「マッドメン」を資料と想像力だけで書き上げてをり、このたび(2014年11月)初めてパプアニューギニアを訪れて本物のマッドメンたちに会ったので、それを軸に作られたっぽい。
冒頭にあるマッドメンたちの写真が素晴らしく、それに混じる諸星大二郎もいい感じで、本屋の店頭で手に取って、即購入したといふ次第です。
しかし・・・これを読んで私は衝撃を受けてしまったのです。マッドメンといへば、そのルックスからも非常に呪術的であり、パプアニューギニアの土俗文化を代表するものだと漠然と思ってゐたのですが・・・なんと、戦後になって作られたものだとか! 1957年に、民族舞踊を集めたショーが行はれ、そこで目立つためにアサロ渓谷のコムニベ村のルイポと呼ばれる男が考案したものらしい。そこでの“マッドメン”が非常に好評で、以後各地でショーを行ふ様になり、現在流布されてゐる数々のマッドメン伝説も、どんどん創作されていったとか。それが70年代に、秘境・オカルトブームの一環として日本に入ってきて、それに接した諸星大二郎が、想像力を働かせて描き上げたのが「マッドメン」。故に、マンガに出て来たマッドメンは、現実のマッドメンからはかけ離れてゐる、と・・・。
う〜ん、さうだったのか・・・。とはいへ、だからといって「マッドメン」の価値が下がる訳でもなく、むしろ逆に、想像力であそこまでの世界を作り上げたのだから、素晴らしい事だと思ひます。あの幻のマッドメンの世界・・・いや、しかし、どんな話だったかほとんど覚えてゐない。読み返してみるか・・・と家中を探したんだけど、見つからない。あれ〜、どこいったんだらう。誰かに貸したかなぁ・・・うーむ。私の持ってゐたのは、秋田書店の分厚いやつ(コミックスの全2巻がまとまったやつ)。ところが、どうもこれは1話足りない、不完全版だった様で・・・現在出版されてゐる「最終版」には全て収められてゐるとの事なので、まぁ、買ひ直してもいいか、とも思ったのだけれど、3000円近くと結構高い。むむむ、どうしよう・・・。
ピッチ・パーフェクト
TOHOシネマ二条にて「ピッチ・パーフェクト」を観ました。
これは大学のアカペラグループを題材に採ったコメディで・・・はっきり言ってストーリーは観る前から分かるタイプの映画です。えー、落ちこぼれのアカペラサークルがあって、学内にあるもうひとつの超人気アカペラサークルに常にバカにされてゐる。そこに主人公を含む何人かの新入生が入ってきて、すったもんだして解散の危機を迎へながらも、それらを乗り越へてライバルグループを倒す!なんならなんかの大会で優勝する!・・・と、まぁ、こんな話なんだらうなぁ、と思って観に行ったら、やっぱ(ほぼ)その通りの話でした。
しかし、それでも一向に構はないのです。こんなのは風俗の面白さと、ギャグの決まり具合が全てな訳で、その点、この映画は大学のアカペラグループといふ、微妙にダサい風俗が堪能できますし、ギャグもそこそこ面白い。なにより、やっぱ音楽の力がいいんですよー。アカペラグループ同士のストリートファイトみたいなシーンがあるんですが、そこで主人公のチーム(ちなみに女の子グループね)がブラックストリートの「NO DIGGITY」で切り込んでくる所なんか燃えたわー。むっちゃアカペラに合ってるな、この曲。
ラストの大会なんかも、大興奮。むろん、ダンスとかもいいんだけど、やっぱ歌の力を感じさせる。それが凄い。これぞ娯楽作品だ!
ちなみに、ジョン・ヒューズリスペクトな映画でした。あー、まぁ、ねー。
中二病でも恋がしたい!戀
アニメ「中二病〜」の第二期、「中二病でも恋がしたい!戀」を観ました。
これは第一期に較べて随分と評判の悪い作品でして、私もかなりの覚悟を持って臨んだのですが・・・まぁ、思ってたほど悪くない。結構楽しんだ、ともいへる。その理由は分かってゐて、私は凸守ファンなので・・・凸守・丹生谷コンビの活躍度がグッとあがってゐたのが、個人的に良かった訳です。その分、主役である六花・勇太コンビの影はひたすら薄く、魅力も減退。それが低評価の一因でもあるでせう。
いや、やっぱそれは副次的な事に過ぎない。「戀」は作品として、決定的に弱い。一期の時にもなんとなく見えてゐて、でもまだ顕在化してなかった欠点が全面に出てしまってゐる。それは“中二病”といふものの位置づけの曖昧さです。
“中二病”とは何なのか。それはいいものなのか、悪いものなのか。克服すべきものなのか、さうでなくても問題ないものなのか・・・などが、非常に曖昧なのです。
第一期に於いて、“中二病”とは、父の突然の死を受け入れられず心を閉ざしさうになった六花が、現実との緩衝として身につけたものでした。故に、それは六花にとって切実なものだった訳ですが、家族・親族とのまともな会話が成り立たなくなり(魔法の力で亡き父を探す、といふ設定の中で全て会話しようとするから)、そこが問題となってゐた訳ですが、それを元中二病の勇太が、一種のサイコマジック!を使ってその問題を解決する・・・といふ展開で、なかなかに感動的なものでした。まぁ、それはいいのですが、なら、六花の中二病はその時点で治ってゐてしかるべきだと思ふのです。それがオーソドックスな展開。それなのに、ラストのシーンでは、まだ六花は中二病のまま・・・に見える。うん?これは・・・と思ったのですが、ま、それくらゐは許容範囲内。冗談で中二病のマネをしてるだけなのかもしれない訳ですし。
ところが、第二期。なんと六花の中二病はそのまんまで幕を開けます。うーん、どうするつもりやろ・・・と思って観てゐたら、新キャラが出て来ました。七宮智音ちゃん。彼女は勇太の中二病の師匠的存在で、中学時代に勇太と共にコンビを組んで中二病に励んでゐた(魔界のものと闘ってゐた)のですが、実は途中から勇太に恋をしてしまひ、それと同時に自分の魔力(中二病力)が落ちてきた事に気がつきます。で、彼女は悩んだ挙げ句、勇太との恋を捨て、魔力を取り戻し、永遠に中二病として生きる事を選んだのです。
おお!さうきたか!心配したけど、ちゃんとテーマが生きてるやん。つまり、中二病(妄想)VS恋(リアル)の対立と相克。実際、六花も、勇太への想ひが募るにつれ、魔力を失ひ始めます。おお、これは面白くなってきた、と思ったのですが・・・。
対立・矛盾するものを統一して、ひとつ上のレベルへといく・・・といふのは永遠普遍の大テーマです。この作品の場合なら、中二病(バーチャル)VS恋(リアル)の統合。これが見事に成し遂げられれば、その作品は傑作になるでせう。さて、どの様なやり方を提示してくれるのか・・・と思ってゐたら、六花の提示した方法は・・・開き直り!私は中二病で居て、恋人でもある!と開き直るだけ。・・・い、いや、そんなんが通るなら智音ちゃんの存在が意味ないやん。ってか、この作品自体の存在が意味なし。なんぢゃそら〜・・・。
その後も、勇太の中に眠る中二病の元みたいなのを甦らせるとか、色々やるんですが、基本意味不明。六花が、単に頭の弱い子にしか見えない。うう〜ん。
出て来るキャラクターが魅力的なだけに、なんか凄く残念。凸ちゃんのフィギュアとか買ったのになー、もー。
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