10月23日〜10月28日 [etc]
映画監督来店
ニューヨークから来た映画監督の方が来店されました。・・・とはいへ、私はその場には居らず、トモコが対応したのでこれは基本的に又聞きです。さらに、私もトモコもその方の事は存じ上げてをりませんでした。
要するに、普通にお客さんとして来店されたのですが、オパールに置いてあったホドロフスキー新聞に興味を持たれた様で、トモコに「ボクはホドロフスキーのファンなんだよ」と、むろん英語で話しかけてきたといふ訳です。
となれば、トモコだって対応できます。「私もホドロフスキーさんは大好きです。今年の春に来日された時には間近でお顔を拝見いたしました。また私は、ホドさんの復刻されたマルセイユタロットを使ってリーディングもしてゐます」と云った内容の事を、拙い英語で答へたさうです。彼はとても驚いた様子で、「実は・・・ボクも映画を撮ってるんだ。この間のサンダンス映画祭では観客賞を貰ったんだよ」と答へたとのこと。ここら、二人の間で正しいコミュニケーションが行はれてゐたかどうかは、イマイチ不安です。しかし、トモコが「リアリティのダンス」のタロット的読み解きを、軽く(拙い英語で)したところ、「OH!」と声をあげて驚愕してゐたらしい。
彼の名前はマイケル・ロサト=ベネット。サンダンスで受賞した作品は「パーソナル・ソング」。なんでも認知症の人に音楽を聴かせて治療する、といふ音楽療法のドキュメンタリーらしく、オリヴァー・サックスも出てゐるとか。ふーむ、興味深い。日本でも今年の12月あたりから上映するさうで、京都にも来るのかな?是非観てみたいものです。
マイケル・ロサト=ベネット監督は、今から三十三間堂に行くよー、と言って帰っていかれました。
イコライザー
MOVIXにて、「イコライザー」を観てきました。アントワン・フークア監督&デンゼル・ワシントン主演の黄金の「トレーニングデイ」コンビ、さらにクロエ・グレース・モレッツも出てゐるとなれば、観ない訳にはいかない。結果として、期待を裏切らない、とても面白い映画でした。
この映画、宣伝では「昼はホームセンターで働く普通の男、夜は19秒で全てを片付ける必殺仕置き人!」みたいなこと言ってますが、まぁ、当らずといへども遠からず。別にデンゼルは19秒で全ての仕事を片付けてゐる訳ではないですよ。宣伝で使はれたシーンでも28秒ほどかかってるし。彼は、キチンとした男なんです。何でも時間を図らずにはをれないの。ダイナーに行っても、座る場所はいつも同じ。同じ物を注文し、同じ所にフォークやナイフを移動させる。ナフキンはきちんと畳む。そして本を読む。とても自己統御ができてる男。やー、かっこいい!それでゐて、軽やかにステップ踏んだりするんだよ。
心身ともにボロボロな娼婦のクロエが、デンゼルに心を開くのは「落ち着いた声を聴いてゐたいの・・・仕事の前には」といふ理由。さう、デンゼルの声っていいんだよねー。この映画のデンゼルはホント完璧だ。クール。
アクションシーンも、基本デンゼルは銃を使はないので、そこらの物を使って相手を倒す。つまり、色んな工夫があって楽しい。アクションはトンチだ。あとはやっぱ見せ方が上手い。
読んでる本が映画の内容と呼応するといふ趣向は、「涼宮ハルヒの憂鬱」でもあったけど、よくある手とはいへ、やっぱいい。
先日観た「泣く男」のガッカリ感を埋め合はせて、さらに相当の余りが出る満足感でした。
涼宮ハルヒの消失
劇場版「涼宮ハルヒの消失」を観ました。これ、アニメなのに162分もある。とはいへ、一瞬。全く長さを感じさせない。茫然としつつ鮮烈な162分でした。
この作品は、テレビ版「涼宮ハルヒの憂鬱」のスピンオフ的なものです。いや、原作のラノベはこれでシリーズ中の独立した一冊なのだから、スピンオフといふのはどうか・・・と思はれる方もをられるかもしれませんが、私はやっぱスピンオフだと思ふ。といふのも、やっぱこの作品は「涼宮ハルヒの憂鬱」の本筋・テーマとは関係のない話だと思ふから。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の本筋・テーマとは、ハルヒが無意識的に持つ世界改変・再創造の力を巡るもので、その力の意味を問ふものだと思ふのです。この「消失」は、その力が前提にはなってゐるものの、力そのものと向き合ってはゐない。故に「消失」は、「涼宮ハルヒの憂鬱」の世界を分かってゐないと理解できない・楽しめない作品でありながら、本筋とは関係ない枝葉末節の話である、つまりスピンオフ的作品、といふ事になります。
しかし、だからと言って私がこの作品を評価してゐないのかといへば、それは違って、むしろ今まで一番面白かったハルヒ作品ではないか、と思ってゐます。
ここで私はフッと思ふのですが、アニメに於いて本筋やテーマを問ふのは、少々的外れなのではないか。私は前回、「涼宮ハルヒの憂鬱」は凄い可能性を秘めてゐるのに、その可能性を尽くしてゐないのが惜しまれる・・・といった内容の事を書きましたが、その気持ちは今も変はらないまでも、この「消失」を観た後では、少しばかり意見の修正が必要な気がしてきました。
アニメに於いては、実は本筋より枝葉末節の方が大切なのではないか?
これは椹木野衣がいふ所の「悪い場所」とも呼応するけれど、最も皮相で浅薄な場所・作品にこそ最も複雑で深刻な問題が宿ってしまふ日本といふ「悪い場所」に於いて、最も複雑で深刻な問題が宿るアニメだからこそ、そのアニメに於いても、本筋やテーマではなく枝葉末節にこそ、最も複雑で深刻な問題が宿ってゐるのではないだらうか。
となれば、「涼宮ハルヒの消失」に宿る複雑で深刻な問題とは何でせうか。
涼宮ハルヒの消失(ネタバレあり編)
日本の文化は、昔から大陸の圧倒的影響下にありました。よく言はれる事ですが、日本は外部からの影響を莫大に受けつつも、その本質とまともに対峙する事はあまりなく、むしろその対決を回避する形で独自の文化を発展させてきました。現在において、その圧倒的な影響源は、むろんアメリカです。現在の日本文化は、圧倒的なアメリカの影の下にある。そして、その事が最も先鋭に現れてゐるジャンルのひとつが、今や「クールジャパン」の一環として日本独自で世界に誇れるものとされてゐる、アニメ・ゲームなどのヲタクカルチャーです。アニメもゲームも元々はアメリカから来た文化ですが、今や最も日本的なものと思はれてゐる。ここが、「悪い場所」です。
さて、これでほぼ明らかになったと思ふのですが、つまり、ハルヒは「アメリカ」なのです。我々の世界を根本的に規定し、作り上げ、改変する力を持つもの。人々はそれに対して、古泉の様にひたすら機嫌をとり続けるか、みくるちゃんの様にひたすら翻弄されるか、あるひは対等たらんとするキョンの様に、ひたすら苛立ちと諦めの間を行ったり来たりする(でも結局言ひなりになってる)か。では、長門は。長門有希ちゃんはどうでせうか。
彼女はひたすら観察するのが役目です。観察するだけで何もしない。
ところが、この「涼宮ハルヒの消失」に於いて、彼女は闘ひを挑みます。なんと、この世を“ハルヒの力のない世界”に改変してしまふのです。
ここで、あれ?ぢゃあ、この映画のテーマはハルヒの力との闘ひなんだから、まともに本筋やん。スピンオフ的な作品ではないのでは?と思はれる方も居るでせう。でも、やっぱそれは違ふのです。何故なら、有希ちゃんの闘ひは、フェイクだから。
そもそも彼女がやったのは、呪文を唱へる事だけです。むろん、彼女は呪文を唱へる事によって世界改変ができる設定にはなってゐます。しかし、それはあくまでハルヒの力の内での話です。ハルヒの力を無効にする事などできはしない(少なくとも、単に呪文を唱へるだけでは)。そんな事ができるのなら、そもそも「涼宮ハルヒの憂鬱」といふ作品は成り立ちません。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の主テーマはハルヒの力にどう対処するか、最終的にどうするのか、といふものですから、その方途をさぐるものになります。が、それが簡単に分からないから、我々はもがき苦しんでゐるのであって、それが呪文ひとつで解決するのなら、問題にするにあたりません。
故に、有希ちゃんの闘ひはフェイクなのであって、実はあんな事は「涼宮ハルヒの憂鬱」の世界では出来ないのです。つまり、極言すれば、「涼宮ハルヒの消失」は、「涼宮ハルヒの憂鬱」の二次創作だとも言へます。本筋から離れてゐる。・・・しかし、先程から言ってゐる様に、アニメに於いては、本筋から離れた所にこそ、最も複雑で深刻な問題が宿るのです。では、それは何か。
それは、キョンが“ハルヒの力がない世界”に移行した時に、即座に、無意識的に、その世界を否定した事です。しかしながら、有希ちゃんの作り上げた“ハルヒの力がない世界”は、前からキョンの望んでゐた世界だったのではないでせうか。何故、即座に、無意識的にそれを否定したのか。確かに、映画の中では「考へてみれば、オレはハルヒの力のある無茶な世界を楽しんでゐた、面白かった」と理由が述べられてゐます。しかし、こんなものは自分を納得させるための後付けの理屈ではないでせうか。つまり誤摩化しです。キョンは本当に“ハルヒの力のある世界”を望んだのか。「悪い場所」では、自分の最も望んでゐないものを望んでしまふ。さういふ事なのではないでせうか。
「涼宮ハルヒの憂鬱」が本質的テーマを回避しながら表面的な遊びに終始してゐること、二次創作的な「涼宮ハルヒの消失」がその問題を露にしてゐること、これらは一対の事です。ここには見事に、日本文化のクリティカルポイントが現れてゐます。「涼宮ハルヒの憂鬱」が、ゼロ年代を代表するアニメである、と言はれる理由が、自分なりに納得できた様な気がしました。
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