神幸祭 [京都]
今年の7月17日は、初めて神幸祭をまともに観ました。
神幸祭とは、7月17日(昼間は山鉾巡行ね)の夜に、八坂神社から出た3基の神輿がそれぞれの氏子区内を巡った後に、四条寺町にある御旅所まで来て、その前でひとしきり暴れた後にそこに収まる、といふものです。
今まで何度か遠くから望見した事はありましたし、四条あたりを褌姿に背中の刺青も鮮やかな人たちがウロウロしてゐるのを見て、あぁ、神幸祭やってるんだな、と、その気配だけを嗅いだ事もあったのですが、今年は始めて、御旅所の前で暴れる神輿をみたのです。
いやぁ、やっぱ勇壮ですね。見て居て気持ちがいい。たくさんの男衆たちが神輿を持ち上げて、ユサユサユサユサと揺らすのですが、それがいい。私は思はず、ローライダーのハイドロを思ひ浮かべましたよ。これで水着姿の女性たちがうようよしてゐたらまんまなんですが、その様な事はなく、代はりに怒号が飛び交ってゐるのが、またいい感じです。
それにしても、やはりかういうのは京都生え抜きの人間でないと、参加できないんでせうねぇ、と思ってゐたら、「いや、意外とさうでもないですよ。外の人間でもできますよ」と答へてくれたのが、神輿を担いでゐたNさん。ただし、ちょっとやってみたい・・・といった軽い気持ちではダメで、最低でも5年以上参加するぐらゐでないとダメらしいです。なーるほどー。
とはいふものの、私はこの様な祭りに参加したいとか、神輿を担ぎたいとか、思った事は生まれてこのかた一度もありません。大体、集団的な大いなる陶酔の中でみなと一体になる・・・といったのが私は苦手で。だから、レイブとかも苦手。若い時はライブやクラブによく行きましたが、勝手に隅っこで踊ってるだけ。踊りは好きなんですよ。でも、みんなと一体になるのは・・・勘弁。
個々の自我が溶解して、大いなる全体に包摂される・・・といふのが気持ちいいのは分かります。日頃我々を規定してゐる自我が溶解するのは、気持ちよからう。また、自我に固執してると人間がせせこましく、窮屈になってきますので、自我を吹き飛ばす事は大切でもあります。だからこそ、古来人間はかういった祭りを行ってきたのでせうが・・・、それでも。そこにしっかりした哲学や思想、世界観がなければ、単なるずるずるべたべたです。最悪の場合、それはファシズムとなる。日本の場合、戦前に一回やってますから。気をつけなくてはなりません。
今のレイブ的なものは、単に商売なので、思想・哲学・世界観なんてある訳がない。祭りも・・・さういったものは完全に骨抜きになってゐるんではないでせうか。むろん、少しでも精神的なものの残滓があるのなら、伝統を守っていくのは大切な事だと思ひますが。
祭りの様な、伝統的な自我溶解装置に精神的な実質を取り戻していく、といった道も大切でせう。しかし、私としては、個人的な資質もあるでせうが、陶酔よりも覚醒を通して自我を消していく道をとりたい。
まぁ、お釈迦さんの教へですよね。日本の様に、じめじめしたV感覚が支配する場所ではなかなか難しいでせうが、それ故にこそ、徹底的なA感覚の擁護を。やっぱ座禅組んで瞑想だな。
なんて事を考へながら、その場を離れました。
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