LIVE STRONG、だったのに [河原町ラストデイズ]
昨日の続き。
ここで、私とババさんの関はりを簡単に述べておきます。
ババさんはオパールの最初期からのお客さんです。ババさんはオパールに通ひ始めてから最初の6〜7年は、それこそ毎日やってきました。これはレトリックではなく、本当に毎日やってきたのです。たまに会社の出張などで来られない時は、事前に謝ってきました。そんな、お客さんなのに・・・。
そして来るたびに、1時間、2時間と喋つていきました。これを週に六日(定休日が一日ありますから)で6〜7年間ですからね、結構色んな事を話した様に思ひます。熱い、濃密な時間でした。そんな中から、このオパールのサイトも生まれたのです。
しかし、ここ1〜2年はそんなババさんとの蜜月もなくなってゐました。仕事が忙しい、といふ理由もあったでせう。ババさんもオパールに来るのが週末だけ、週にわづか二日に減ってゐました(それでも二日は来てくれてゐた、といふ言ひ方もあります)。サイトの更新も滞りがちで、何よりサイトに書かなくなった。ババさんの映画レビューはオパールサイトの目玉だったのに、もう、全くと言っていいほど書かなくなってしまったのです。仕事が楽になれば書くよ、とは言ってゐたのですが・・・。
いや、ハッキリ書きませう。私はババさんに対して、幾分怒り、幾分失望してゐました。なんと言ってもミクシーです。確かに仕事が忙しかったのは事実でせう(これも癌の一因、それも結構大きな原因だとは思ひます)。しかし、オパールのサイトに書かなくなったのと、ババさんがミクシーにはまり出したのはほぼ同時期だったのです。オパールでのレビューは書かないくせに、ミクシーでは映画の感想を書いてゐるらしい、といふのが気にいりませんでした(ちなみに私はミクシーに参加してゐないので、ババさんがどの様なものを書いてゐたかは、正確には知りません)。多大な労力と時間を要するレビューに較べて、ミクシーでの一口感想は簡単にできる、といふのは分かります。しかし、オパールのサイトをやらう!と言ひ出したのはババさんではないですか。その時に、ボクは映画のレビューを書くからケンタロウさんは日記を(毎日!)書いて下さい、と言ったのもババさんです。それもあって、私は苦しいながらも7〜8年あまり、毎日「店主の日記」を書き続けたのです。それなのに、ババさんが一方的に楽な方に流れていいのか。お互ひの信義はどうなってゐるのか。などと、憤懣やるかたなく、私もある時、店主の日記毎日更新をやめてしまひました。なんだかバカらしくなってしまって。
今から振り返ると、これらの怒りをハッキリとババさんにぶつけなかったのは良くなかったかもしれません。常に遠回しに、それとなく不満を伝へるだけでしたから。しかし、いくら親しくしてゐると言っても、やはり私とババさんの関係は店の人間とお客さんです。お客さんは原則として、いつ店に来なくなってもいいのです。私はオパールから距離を置きつつあるババさんに、諦念をもって対してゐました。
実を言ふと、それもあったのです。ババさんがオパールに姿を見せなくなった時に、そこまで真剣に(おもしろさんの様に真剣に)ババさんを探さなかったのは。ババさんはオパールに飽きたんだな、と私は考へたのです。それにしてもサイトを放ったらかしといふのは酷い、とは一寸思ひましたけど。
そんな経緯もあったので、ババさんのお見舞ひに一日おきに病院に通ひ始めた当初、私は「なんで自分が選ばれたのか?」といふ想ひが消えませんでした。ババさん、もっと他に親しくしてゐる人たちが居るんぢやないの?映画仲間とか、自転車仲間とか、クラブ仲間とか、芸大の仲間とか、ミクシー仲間とか、左翼仲間とか。なんで今さら私なのか。
とはいへ、そんな想ひが表面に出る事はありませんでした。なんといってもババさんは闘病で苦しんでゐるのです。私は出来る限りの事はしようと思ひ、まづレンタルで液晶テレビを借りてババさんの病室に持ち込み、私の家からDVDプレイヤーを持ってきて、ババさんが映画を見られる様にしました。それからババさんがカプチーノを飲みたいといふので、さすがにオパールのは無理でしたので、病院近くのスターバックスでカプチーノを買って持っていき、二人で飲みながら話をしました。映画の話、小説の話、政治の話、科学の話、芸術の話、オパールの新店舗について・・・・・・と、まるでそこがオパールのカウンターであるかの様に。
ババさんの最後の一週間については、辛過ぎて書けません。とにかく、苦しみ抜きました。肺癌の最後は悲惨の一言です。最後に会った時(死の前日です)は私の事を分かってゐたかどうか・・・。
だから、まだババさんの意識がハッキリしてゐた最後の日の事を書きます。その時でも、ババさんは相当苦しさうでした。私は去りがたかったのですが、いつまでも居る訳にはいきません。帰り際、それまではいつも手を振って別れてゐたのですが、私は初めてババさんの手を握りました。ババさんもビックリするほど強い力で私の手を握り返してきます。その左手には、ババさんがいつもしてゐた「LIVE STRONG」と書かれた黄色い輪が。私はババさんに「LIVE STRONGですよ、ババさん!」と語りかけました。すると、ババさんは左手を握りしめてグッと宙に突き上げ、苦しさうな息のもと、ニコッと笑ひました。これが、私がババさんと交はした最後の会話です。
私は未だにババさんの死を納得できないでゐます。
Comments
投稿者 うさこ : 2008年08月17日 00:41
会社の後輩です。
松山さんの手首にある黄色い輪。
松山さんから1ドルで購入して以来ずっと手首にしています。
私がある手術を決意したとき(命には全く別状のないものですが)この輪を見つめながら手術への心の準備をしました。
会社に復帰してから傷が痛いとかmixi(店長さんごめんなさい)に書き込むとすごく心配していただきメールも何回かいただきました。
クールに見えていたので意外でしたが。
会社でもよく頭の悪い私に隣に座って根気よく仕事を教えていただきました。
入院された当初はとてもショックでもう亡くなれたかのように一人で泣いたりしていました。
本当に亡くなられたときは2度亡くなられたように感じてます。それもお見舞いに行こうとしていた日に亡くなられたので、もう何と言っていいかわからないのですが。
長々書いてすみません。
まだ心の整理がつかないので文章も整理して書けません。(言い訳)
投稿者 店主 : 2008年08月17日 06:34
うさこさん こんにちは
あの黄色いLIVE STRONGの輪。ガンから生還したアームストロングのものだったので、ババさんは絶対に意識してゐたと思ふのです。「必ずガンから生還するぞ!」と。それなのに・・・。
・・・世の中は非情です。
私自身も、まだうまく事態を自分の中で整理できてゐません。お互ひ、もう少し、時間がかかるでせうね。
投稿者 りん。 : 2008年08月18日 01:26
こんばんわ
私もうさこさんと同様松山さんの会社の後輩です。
7月20日に着物姿でお店に行って「私たち会社の後輩です」と
挨拶させてもらったのは私たちです。
私たちは癌だと教えられていなくて、
トモコさんが「お見舞い行ってあげてね」と
強くおっしゃっていた意味が分かっていませんでしたので、
「はぁ、わかりました」みたいな気のない返事をしてしまいました。
でも、うさこさんたちが23日にはお見舞いに行こうと計画しているのを知っていたので、
20日にお見舞いに持っていく本を買っていたのです。
松山さんがどんな顔をして受け取ってくれるか想像しながら、
その本を選びました。
また、亡くなられる前日の22日には、23日に持って行くはずだったお見舞いの「プラネタリウム」を会社で試写して、
その時もやっぱり松山さんが喜んでくれることをみんなで想像しながらわいわい楽しく見ていたのです。
本当に何にも知らなかったのです。
ごめんなさい、トモコさん。
ごめんなさい、松山さん。
勝手に長々と、お見舞いに行けなかった言い訳のように書いてしまいました。
失礼しました。
投稿者 トモコ : 2008年08月19日 07:46
りんさま お友達のみなさま
何が起きても、時間は刻々と過ぎていきます。
河原町のオパールの営業日もあと2日となりました。
ババさんをはじめ温かいみなさまのお気持ちに助けられてここまできました。そしてこれからも。
りんさまが謝られることは無いのですよ。
最期にお会いした時、『また何度でもお会いしましょうね』という私にババさんは頷かれて私の手を強く握られました。
きっとりんさまもまた会えますよ。
投稿者 RINA : 2009年02月11日 00:47
ババさんの沢山の沢山の映画レビュー大好きだった。
映画ってこういう見方もあるのかって、凄く面白くてわくわくしてました。
あげく、ババさんをオパールのお店の人だと勘違いしていた私です。
最近余りこちらのサイトにも訪れていなくって、日記を久しぶりに読み漁っていたら…。
(あれ?ババさんの映画レビューは?て探していたのですよ…)
うーん、お会いしたことはなかったけれど、あの文章が読めないなんて、残念。
そして切ない。
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