ウェブ進化論 [読書・文学, インターネット]
話題になつてゐる『ウェブ進化論』梅田望夫(ちくま新書)を読む。著者は、日本人にはオプティミズム(楽天主義)と果敢な行動主義が足りない、とし、自らオプティミスティックにこの本を書いた、と述べてゐるが、確かにあまりに楽天的。といふか、そのあまりに初心で底の浅い世界理解を見てゐると、オプティミズムとは思考停止の事ではないのか、と文句のひとつも言ひたくなつてくる。かなり問題のある書だと思はれるので、僭越・非力ながら批判しておきたいと思ひます。
著者はウェブの進化によつて、これから全く誰も見たことがないやうな新しい世界が到来する、と述べてゐるが、そこに描かれる世界は、すでに見古したやうな世界である。それは20世紀の作家たちが、アンチユートピアとして描き続けた世界である。むろんそれはフィクションであるので、実際にはそんな世界は訪れてゐない訳だが、(そして現象面においてはそれぞれかなり違ふ様相を示すが)、いま現在のこの世界の枠組みを、テクノロジーの大進化によつて無邪気に押し進めると、必然的に現れてくる暗黒の世界、といふ事で描かれた世界なのだ。故に、本質において、この著者の描く世界とそれらアンチユートピアは共通する。その世界の(暗黒面の)特徴は次の二つである。
- 進化したテクノロジーによる徹底した管理・監視社会。
- 進化したテクノロジーによる大規模な直接民主主義。
たとへば著者は、「不特定多数無限大への信頼」こそがこれから到来する新しい世界を理解する鍵だ、といふやうな事をいふが、こんなものは、ギリシャ・ローマの昔から討議され尽くされた問題である。そして、もちろん答もとつくに出てゐる。それは、直接民主主義(不特定多数無限大への信頼)は数が多くなれば必ず衆愚政治となる、といふものである。そして衆愚政治は、簡単に全体主義へと繋がる。つまり、ネットの大進化した世界では、かつてない程の衆愚政治が実現し、これが全体主義へと転化した暁には、その絶大なテクノロジーによつて、完璧な管理者会が完成する、といふ訳である。
20世紀の思想家たちは、この事に警鐘を鳴らし続けた。むろん、20世紀になつて、かつてない程のスピードで進化するテクノロジーに危惧を覚えたからだが、この事がまるで念頭にないかのやうなこの本の著者の論は、あまりに幼稚すぎる。なんでもかんでも新世代vs旧世代の対立に持ち込み、無邪気にも「新」の方が「旧」より良い、と信じきつてゐるのだ。そして、如何にして「新」に乗るか、といつた話ばかりしてゐる。少なくとも、上記の基本的な二つの課題(来るべき未来社会の暗黒面)に対する答がなければ、「新」の方が「旧」より良いとは言へないはずだ。この著者の幼稚さを示すエピソードをひとつ。
2005年9月11日の総選挙における小泉自民党の圧勝。これを著者は事前に予想してゐた、と誇らしげに書く。政治のプロでさへ予想できなかつた事をなぜ予想できたのか。それはネットを巡回してみると、小泉に好意的な意見が多かつたからだといふ。それ故、この著者は自分の母にも「今回は小泉支持」だと指示し、結果として訪れた小泉圧勝に鼻高々、といつた次第である。
しかし、政治といふのは勝ち負けを競ふゲームではない。ましてや、勝ち馬に乗るゲームでは決してない。この人は、政治といふものを全く分かつてゐない。しかも、この選挙戦では、小泉陣営はネット空間にゐる浮動票を獲得する事を作戦としてゐた。政治の事に無知な浮動票をたくさん獲得するのが、衆愚政治の要諦だからである。で、有力ブロガーを首相官邸に招いたりして様々な餌をネット空間にばらまき、ネット空間での好意を得て、大勝利を得た、といふ訳である。この事実に鑑みると、要するにネット空間の人々は小泉の手のひらの上で踊らされてゐただけ、なのにその事に気がつかず鼻高々、といふのは、正に衆愚政治の典型ではないか!
…うーむ、久しぶりに真面目な事を書いたら、肩が凝つてしまつた。ま、かういつた浮薄な言説に惑はされず、「進化」といふ名の「堕落」を厳しく見つめ続けませう。それが人間の叡智、だらう?
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