萌える男 [読書・文学]
本田透著『萌える男』(ちくま新書)を読む。これは自身もオタクで“萌える男”である著者が、“萌え”とはどういふ事か、といふのを説明しやうと試みた本である。先日読んだ東浩紀「動物化するポストモダン」と、“萌え”に関する定義がまるで正反対で、さういつた事もなかなかに興味深かつた。が、最初に私の結論を述べると、この『萌える男』の立論は全く納得できない。歴史・現状認識が非常に観念的で、故に議論が恣意的になり、過剰な自己正当化と手前味噌な結論に満ちてゐると思ふ。ま、それがオタク的、と言へばその通りなのだけれど。
簡単にこの著者の主張を述べると、かうだ。まづ、西洋において神(GOD)の権威が揺らぐにつれ、恋愛といふ観念がクローズアップされてきた。人間の自我は、何かに保証・肯定されてゐないと非常に不安定になる。昔は神がそれを行つてゐたのだが、近代になり神の権威が揺らいできて、保証・肯定が難しくなつてくると、神の代はりに“恋愛”によつて自我を保証・肯定しやうといふ風になつてきたのだ。唯一人の“運命の人”と出会ひ、愛し合ひ・尊敬し合ふことによつて、お互ひの自我を保証・肯定し合おうといふ訳だ。これがそのまま“恋愛結婚”に至ると、社会の中にも自分の居場所が位置づけられ、自我の安定は強固になる。かうやつて西洋で発明された“恋愛”が、明治から大正にかけて日本に輸入される事になる。ま、ここまでは、よくある議論である。さらに著者は続ける。
この“恋愛”が1980年代に日本で商品化され、資本主義化された。これを著者は“恋愛資本主義”と名づける。マスコミは、ありとあらゆる手段を使つて“恋愛”を煽り立て、それに付随する商品を売らうとする。これによつて、資本主義が貧富の差を広げるやうに、恋愛強者と弱者の差が広まつた。恋愛したくても出来ない恋愛弱者が大量に産み出され、彼らの自我は安定できず、ルサンチマンのみが集積していく。この自我の不安定が内に向かへば、鬱・引きこもり、などになり、外に向かへば、鬼畜化(残虐な犯罪・ストーカーなど)する。これは大変な事態だ。実際、様々な社会病理がここから産み出された。が、ここに、“恋愛資本主義”に背を向け、自らの趣味のみに耽溺する人たちが現れた。それが“オタク”である。オタクはマスコミに踊らされる事なく、萌え(脳内恋愛)る事によつて、自らの恋愛感情を満足させ、自我を安定させる。これこそ、神なき時代、しかし恋愛といふ観念もうまく機能しない時代にとるべき新しい道ではないか? “萌える男”は正しい。“萌え”こそ人類を救ふのだ…。
さて、以上が大体著者の述べるところなのだが、ま、長くなりさうなので、続きは明日にでも。
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