ALWAYS 三丁目の夕日 [映画]
TOHOシネマズ二条にて『ALWAYS 三丁目の夕日』を観る。これは西岸良平のマンガの映画化、昭和30年代の日本を舞台に、今は失はれてしまつた美しく睦まじい人間関係を描き、人々の笑ひと涙を誘ふ…となれば、些かあざとい感じがしないでもないけれど、何故私がこの映画を観に行つたのかといふと、それは原作マンガを昔それなりに面白く読んだからで、そこではかういつた世界に漂ふ一種の“あざとさ”を、西岸良平の独特なとぼけた絵が見事に帳消しにしてゐた。
では、映画版ではその点はどうなのであらうか? といふと、特撮斑出身だといふ山崎監督の大活躍により、CG大爆発の“昭和30年代東京”が出現、気持ち悪いことこの上ない! …いや、なかなか良くできてゐるのだが、やはりモロにCGで、その違和感、気持ち悪さは消せない。が、それ故にかへつて、話自体に漂ふ“あざとさ”を中和してゐる(これはフィクションだよ! としつこいまでに明示するから)とも言へる訳で、なるほど、これはマンガを上手く映画化してゐる、かも。と、なかなか複雑な感慨に襲はれたのであつた。
で、お話の方は、みなさんのご想像の通り、まだ人間関係が濃密であつたが故に可能な人情話の連べ打ちで、ああ、こんな話あるよねー、てな既視感バリバリなのだけれど、そこは脚本・演出ともになかなかの出色で、もうボロ泣きに泣かされてしまつた。ま、私の涙腺は緩い訳だが、それにしてもこれは、といふ程に泣かされ、映画館の暗闇を出るのが恥ずかしくて帽子を深く深く下げてみたりしたのだけれど、どうやら他のお客さんも一様に泣きまくつてゐたやうで、やはりみんなこの50年ほどで日本が失つてしまつたものの大きさに深く傷ついてゐるのだなァ、物質的な豊かさは精神的な豊かさを破壊した、その事に気がついた人々は家に帰ればまづテレビを叩き壊すだらう、と考へたりしたのだが、多分それは私の妄想に過ぎないでせう。それにしても、なんで今このやうな生活が可能でないのか、「子供の顔を見たくない親なんてゐる訳がないでせう」などといふ我々を泣かせたセリフが何故現代においては白々しく聞こえるのか、等の事を、一度真剣に考へてみるのはこの映画を観て泣いた人の義務ではないだらうか。とは思ひます。
主役のひとり、吉岡秀隆が演ずる“茶川龍之介”が、誰かに似てゐるなー、とズウッと思ひながら観てゐたのだけれど、終盤近くになつて分かつた。これ、オオヤさんやん!!! 顔もなんとなく似てゐるけれど、喋り方や佇まひがソックリ! …いや、吉岡秀隆は『北の国から』の主役の人ださうで、私は観たことがないので分からないけれど、ババさんによると「今回の役は今までとはガラッと感じが違ふ」といふ事なので、オオヤさん=ジュンくん、とは思はないで下さい、オオヤコーヒーのファンの皆さま。でも、ホント、茶川龍之介はオオヤさんに似てゐますよ。
あと特筆すべきは子供たちの顔の良さ。淳之介や一平の顔は最高だ。これだけで一見の価値はある。が、こんな子供たちを観てゐると、本物の(?)古い日本映画が観たくなるのであつた。稲垣浩の『忘れられた子等』とかね。
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