ジョゼと虎と魚たち [映画]
ビデオで『ジョゼと虎と魚たち』(犬童一心監督)を観る。すでに2年ほど前の映画であり、当時かなり評判になつた作品でもあるので、今さらながらの感がなきにしもあらずだが、やはり「良かつた」と言はずにはをれない。特にジョゼ役の池脇千鶴は最高だ。窓越しに下から見上げるジョゼ、「ここに居(を)ッて」と泣きじゃくりながら訴へるジョゼ、最初で最後の旅行の準備支度を終へ、煙草を吸ふジョゼ。全てが素晴らしい。これによつて、確実に池脇千鶴は映画史にその姿を刻んだ。と、私は確信します。
さてさてこの映画は、あらゆる面において不対象な二人による恋愛物語である。不対象、と言へば、ああ、健常者と身体障害者の恋愛か、と思はれるかもしれませんが、それは実は大した事ではない。まづ、限りなく強い女性と、ひたすらひ弱でヘタレな男性、といふ不対象である。ジョゼは強い。しかし、筋トレにおいて筋肉を強くするには、ひたすら筋肉にプレッシャーを与へ、虐め続けるしかない、といふ事からも分かるやうに、ジョゼはひたすら世間からプレッシャーを受け、虐められ続けたからこそ、この強さを獲得したのである。対してツネヲ(妻夫木聡)は温室育ち故、優しくて気はよいが、脆弱でヘタレである。この不対象が、まづ目につく。そしてこの事にも増して圧倒的に不対象なのが、恋愛に対する認識、なのである。
サガンを愛読するジョゼは、恋愛の何たるかを知り尽くしてゐる。つまり、恋愛とはこの世ならぬもの、この世にはあり得ないもの、といふ事を分かつてゐるのだ。対してツネヲは、何も分かつてゐない。ただ無邪気に、自分の感情に流されてゐるだけだ。この不対象は圧倒的である。実際問題として、ジョゼは足が悪くて歩けない。だから常にツネヲに助けられて生活してゐるやうに見える。ジョゼの乗つた乳母車を押すツネヲ、ジョゼを背負つて海岸を歩くツネヲ。これは表層的にはジョゼ=弱者、ツネヲ=強者の映像のやうに見えるかもしれない。が、さうではないのだ。ジョゼが強く、ツネヲを助けてゐる映像なのだ。今まであまり外の世界に出られなかつたジョゼは、まるで幼児が世界を獲得していくかのやうに、様々なものごとに対峙していく。それを、「ジョゼは**初めてだもんな」と余裕を持つて遇するツネヲ。しかし、ここで何も分かつてゐないのはツネヲの方なのだ。ジョゼは、今正にこの瞬間、恋愛をしてゐるこの瞬間が、かけがえのない、そのうちに消えてしまう奇蹟のやうな瞬間である、といふ事を知悉してゐる。だからこそ、一瞬一瞬を、全身で全力で、味ひ尽くさうとしてゐるのだ。それに対して何も分かつてをらず、漫然と何となく楽しく日々を過ごすツネヲ。彼はジョゼの言つた「感謝しィや」といふ言葉の意味が分からない。「俺(の方)が?」と聞き返す始末。むろん、ツネヲは感謝すべきだつたのだ。ジョゼのおかげで、この“恋愛”といふ奇蹟のやうな瞬間を持てたといふ事を。この事に、ツネヲはジョゼを捨てた後に気づくだらう。その時に、いくら泣いたとして遅いのだが。
この映画における、ジョゼとツネヲの映像は素晴らしい。そして、それは上記の圧倒的な不対象故に、鋭く胸を刺す。ジョゼを捨てた後、ツネヲは普通の幸せな家庭を持ち、世俗的な幸福を得るだらう。対して、ジョゼには世俗的な幸福は無縁である。しかし、それがどうだといふのだらうか。精神的な強さと知性を持つたジョゼは、超俗的な楽しみの境地に自らを遊ばせ続ける、のではないか。……と、書いたとて、やはり私の胸は痛むのだ。平凡でつまらない人間こそが、世俗的な幸福を得られるといふ、この当たり前過ぎて凡庸で酷薄な事実! これを、この映画はオブラートに包んでソッと差し出す。そこが、現代的な“今”の感覚なんでせうか。
現在、犬童一心監督の新作『タッチ』がやつてゐるが、これも観に行くべき、かな。
Comments
投稿者 ねこすけ : 2005年09月25日 14:21
お久しぶりです。
『ジョゼ』自分も大好きな作品です。そして、この映画の通りとまで行かずとも、近い形で最近恋が終わりました(苦笑)なんともアホです。
久しぶりに見たくなりました。見たらまた泣くんだろうなぁ。。。
投稿者 店主 : 2005年09月27日 00:36
お、ねこすけくん久しぶり。
さうですか、恋が終はりましたか。でも、男に必要なのは、恋ではなくて“愛”と“友情”だ!
頑張つて下さい。
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