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2005年08月21日(Sun)

第24回六轡会篆刻展 書・篆刻

 京都文化博物館に「第24回六轡会篆刻展」を観に行く。例によつて、色々と刺激を受けた訳だが、それはさておき、実を言ふと今回は、テラリーを観に行かせたのである。テラリーは篆刻など知らない、といふ。では、そんなテラリーはどんな感想を持つたのであらうか。本人にきいてみる。

「全く訳が分かりませんでした」

 うーむ、訳が分からない、とはどういふ意味なのかな?

「まづ、字が読めません。だから何が書いてあるのかが分からなくて、意味が分からなかつたです。どう自分の中で捉へていいのやら…」

 なるほど。あのな、テラリー、篆刻といふのは、一応“詩・書・画”の全てに通じた人がやるもんなんだ。ま、それは建前で、私のやうな何も出来ない人間がいきなり篆刻をやつたりして事態を混乱に陥れてゐたりする訳だが、それはともかく、つまり篆刻には“詩・書・画”の全ての要素が含まれてゐる。鑑賞する側も、自らの教養・能力に応じてそれらを鑑賞する訳だ。何だつてさうだが、教養のない人間にモノを“鑑賞”する事はできない。まづ、篆刻の素人なら、“画”の側面に注目して鑑賞する。どのやうに印を効果的に見せるか、といふ点に注目するのが分かりやすいだらう。小先生の作品なら、モダンな抽象画のやうな画面構成。これを堪能する。次に、印そのものを観る。この印と全体の調和、そして印面そのものの構成。ここら辺までは“画”の教養があれば、とりあへず堪能できるだらう。

 さらにいくと、今度は“書”の側面だ。当然、印に彫られてゐる“書”を堪能することになるのだが、これは多少なりとも“書”の教養がないと、なかなか堪能するのは難しい。最近は篆書が一寸ばかし流行つてゐて、多分篆書のことを全く分かつてゐないデザイナーが、篆書をデザイン化したやうな字を書いたりしてゐるが、あれ、全然ダメ! “書”には、近代デザインなんかと較べものにならないくらゐの伝統がある。そこには積み重ねられ、洗練された美意識がある。それを分からず、薄ッぺらなデザイン感覚とやらで字を書かれても、そんなものは醜くて見てゐられない! だから、テラリーも、まづ“書”に関する教養を積んでください。

 最後に“詩”の側面。これはもちろん、そこに書かれて(彫られて)ゐる印文に関はるものだが、それを堪能するには漢詩に対する理解、そしてそのバックグラウンドにある膨大・深甚な古典の世界に通づる必要がある。これはなかなか…大変だよな。

「篆刻ッて、凄いですね。奥が深すぎます」

 だろ? 私も、自分程度の人間が篆刻をやつてゐるといふのが烏滸がましくて…かういふ展覧会とか観ると、眩暈がするんだよな。どんだけやらなあかん事があるねん! ッて。

 ああ、まづは仕事をしなくては。

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