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2012年03月12日(Mon)

「おとなのけんか」 []

Text by Matsuyama

子どもどうしのけんかで、ケガをした側の両親が「平和的に解決しましょう」と、ケガをさせた側の両親を家に招き、話はほぼまとまりかけたと思ったら、ちょっとした意見の食い違いによって、一方の両親が帰るに帰られず、そこから親どうしのけんかに発展し、さらにはどちらかの夫VS妻、男性陣VS女性陣とけんかの相手はコロコロと入れ替わる…。

軟禁されているわけでもないのに、いつまでも帰ることができない作品といえば、ルイス・ブニュエル監督のシュールレアリズム作品で上流階級を皮肉った「皆殺しの天使」を思い出す。ポランスキー作品で密室劇といえば1994年のサスペンス作品「死と処女」も元々は舞台劇だ。映画「おとなのけんか」はとにかく分かりやすいが、大げさなジェスチャーやドタバタで観客を笑わせる舞台版とは違い、コメディ作品でありながら、きわめてシリアスな演技で「あなたはホントに笑えますか?」と観客に問いかける作品だ。

さて、ポランスキー作品でいつも筆者が注目するのが「煙草」の演出だ。70年代の作品「テナント/恐怖を借りた男」ではアメリカ煙草の隆盛によって、フランス煙草の人気低迷を憂う場面が印象的だ。「赤い航路」では中華レストランでの食事中、吸っている煙草を使って手品をしたり、「ナインスゲート」では主人公(ジョニー・デップ)が世界に3冊しかないという稀覯書を鑑定するときに、わざわざ煙草に火を着け、「戦場のピアニスト」では物乞いがナチス党員に煙草をもらい、「ゴーストライター」では元ファーストレディが隠れ煙草、と、必ずといっていいほど登場する皮肉めいた煙草の演出。

今回は煙草は登場しないが、ケガをした側の父親で金物商のマイケル(ジョン・C・ライリー)が、相手の父親で弁護士のアラン(クリストフ・ヴァルツ)に葉巻を進める場面がまさにそれだ。
マイケルの妻で人権派を主張する自称作家のペネロペ(ジョディ・フォスター)は「喘息の子がいるんだから家の中で吸うのはやめてって言ってるでしょ」と激怒。問題の原因をひとつに定めて執拗に抗議するのがリベラルの典型だ。そこへ割り込んできたのが、相手側の母親で投資ブローカーのナンシー(ケイト・ウィンスレット)だ。「おたくの子が飼ってたハムスターだって喘息には良くないわ(ペットは喘息の大敵なのよ…)」とペネロペを挑発する。相対的リスクを説かれたことで、ペネロペの人権理論は破綻してしまったのだ。いまこれを笑える日本人は少ないかもしれない。

ダルフール紛争(スーダン)に関する本を執筆中で、その民族浄化問題に造詣が深いペネロペは、同じ価値観を周囲に強要するが、夫でさえもうんざりだ。チベット問題やパレスチナ問題など地球上で殺戮や紛争はダルフール以外にもあるが、ニュースソースとしての鮮度やインパクトがあるかないかでメディアが勝手に選択しているだけなのだ。そもそも中国と欧米の石油利権争いに触れずしてスーダンの紛争・内戦を語ることはできない。
ペネロペ以外の3人を見れば、商店主のマイケルは商売が順調といえども、趣味は高級ウイスキーに葉巻と、なぜか不釣り合い。アランは担当している製薬会社が起こした不祥事の火消し作業に追われ携帯電話を手放さず、ナンシーは家庭に無関心な夫と、多忙(でも不況でパッとしない)な仕事でストレスは極限状態で、とつぜんゲロをぶちまけたり、夫の携帯を水に沈めるという“武力”を行使するなど、なんだか国際紛争の黒幕を具現化したような人物ばかり。

途上国の紛争を子どもどうしのけんかに見立て、もはや世界平和などどうでもよくて、私利私欲にひた走る大国と、自己満足に盲進するリベラルをただただ笑ってやろうという作品なのだと筆者は思う。しかし問題は、このリベラル・ママをホントに笑えるかい?と、胸に手を当ててみる必要がある人間が日本人にも少なからずいる、ということだ。ポランスキーの意地の悪さはそこにある。「戦場のピアニスト」以降、前作「ゴースト・ライター」までの優等生作品も悪くはないが、今作は「ナインスゲート」以来、もう観ることはないと思っていた最もポランスキーらしい作品だと筆者は嬉しく思ったのである。

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