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2009年12月10日(Thu)

「脳内ニューヨーク」 ☆☆☆★

Text by Matsuyama

天才脚本家といわれるチャーリー・カウフマンの初監督作品というので期待は大きかった。
やはり優れた脚本家っていうのは1度は撮ってみるべきなんだと思ったね。しかし難解だ。1回観ただけでレビューを書くなんて大それたことはできないと思いながらも、書こうとしているオレがいる。こういうのを京都の言葉で“いちびり”と言うらしい。
そういうわけで、この作品は、ただ漠然と観ていたら2回、3回と見る度に解釈は変わってくるはずだ。

さて、そもそも「脳内ニューヨーク」という邦題がどうにも浅薄と思う。いかにも「マルコビッチの穴(1999)」のイメージを植えつけてヒットを狙ったようにしか思えない。
「シネクドキ・ニューヨーク」というのが原題で、カウフマンは発音し難い言葉をタイトルにしたかったと言うが「シネクドキ」にもちゃんとした「提喩(隠喩の一種)」という意味があるわけで、提喩が「ニューヨーク」にかかっているなら「ニューヨーク」という言葉の背後には何か大きな意味があるはずだ。

「その土曜日、7時58分(2007)」で破滅が目前に迫った傲慢・強欲な男を演じたフィリップ・シーモア・ホフマンがまたも同じようなキャラで、ある日死期が近い?と感じた、野暮で自己チューな男を演じた。
「ダウト 〜あるカトリック学校で〜 」でもそうっだったけど、オレはこの男(役としての)を見るたびに胸くそ悪くなるのは、それだけ彼が芸達者だということなんだろう。しかしまぁ、この度はシンクでションベンするとはなぁ…。

また、サマンサ・モートンが需要な役(ヘイゼル)で出ているが、「マイノリティ・リポート(2002)」の骨皮アガサさんだったとは思えないほどカラダがエラい事になっていた。この人、見る度にゴツくなっていて、“役作り”というよりは、おそらくその体格で抜擢されているんだろうな。

さて主人公ケイデン(P.S.ホフマン)は高い評価を受ける劇作家だが、自身の精神的な利害得失によってしか行動を起こさない、実に愛情の薄い男のようだ。
半端に権力を持ってしまっているために、慕う者もいるが、いちばん身近にいる家族はやはり離れていく。
そして傷ついたケイデンは、ある資金を元に巨大な倉庫を買い、そこで自分の人生の一日を上演するために大都市ニューヨークを建設した…

ニューヨークでは誰もが傷つきつつもそれに気付かずに平然と暮していることに気付いていたのは、妻とその友人、のちに娘も。
終盤ケイデンは「大勢いて誰もがエキストラじゃない、人生の主役だ、みんな自分の出番を待っている」と、どこかで聞いたふうなことを言うが、オレの胸にはまったく響いてこなかった。ケイデンには何もわかっていなかったはずだ。

周辺で次々と人は死に、多くの問題が浮上する。その度にケイデンは手を替え品を替え、役を替えて方向性を見出そうとするがどうにも収拾がつかない。それはまるで次々とカンフル剤を打ちつつも財政の立て直しがきかないアメリカのようだ。

これはコミカルな悲劇だ。そしてタイトルの「ニューヨーク」が意味するものは「崩壊、破滅」だ。

立て直したいのは家庭なのか?アメリカなのか?自分なのか? もはや手遅れとなってしまった今、それでも自分の欲を満たしたくて何か方向性を探すのなら…

もう「死になさい」という声がどこからか聞こえてくるのかもしれない。

終盤になって「最初からスクリーンの隅々までちゃんと観ていれば良かった」と思った。
だから今回もまたいいかげんな解釈だが、オカネも時間も落着きも無く、そして“脳無い”オレには、できれば一回観ただけでも、もう少しわかり易い作品がいいかな。

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