「禅 ZEN」 [☆☆☆☆★★]
この作品は道元禅師を描いたものですから、曹洞宗(またはそれ含む禅宗)の立場で仏教というものが描かれています。だから見ようによっては禅宗こそが仏教の本流だと言っている風にも見えます。しかし、多くの外国人がアジアにおける仏教を相対的に見た場合、日本での仏教と言える(そう見える)のは、宗派を超えた意味での“ZEN”なのではないでしょうか。
ひとつの要素としては、柔道、剣道、弓道などの武道の中に禅の思想があることをガイジンたちは日本人以上に理解しているようです。それらはレスリング、フェンシング、アーチェリーとはまったく違うものだということを知っているのです。
一部分ちょっとヨケイだな?と思うシーン(“おそらく現在の曹洞宗の大勢のお坊さんたち”が永平寺の階段をゾロゾロと降りてくる)があり。これを曹洞宗永平寺ののコマーシャル映画と見ればそう見えるかもしれませんが、私はこの作品は道元を通して日本の仏教界の堕落を批判した、これまた政治映画なのだと言い切ることができます。そう考えることで私は観賞中から持っていたわだかまりが解消できたのであります。
わだかまりとは何なのかと言いますと、この作品の第二の軸になっているのは、今にも死にそうな自分の赤ん坊を抱いて「助けてください」と言う“おりん(内田有紀)”に道元は「村に行って一粒の豆を貰って来なさい、但し一人も死人の出ていない家から貰って来るのだ」と言って、誰もが人と死に別れる悲しみを乗り越えて生きていることを教えるエピソードです。あれはインドのサーバッティという村のキサーゴータミーという若い母親が釈迦と出会って尼僧になるまでの有名な物語であって、実際は道元のエピソードとしては伝えられてはいません。ただし“ありのままを受入れる”という道元の教えを伝えるために引用されるエピソードではあります。こうして、ある意味、釈迦のエピソードをあからさまに道元のエピソードとして見せることで「曹洞宗の教えこそが釈迦の教えの本流なのだ」という、現代の日本の仏教界に対する挑戦のように私は受けたのでした。
現代に比べ当時の曹洞宗の戒律は極めて厳格だったといわれます。現代でも曹洞宗のお坊さんが道元の教えを守っているのか、または他の宗派のお坊さんがみな堕落しているかどうかは、これも私にはわかりませんが、現実にはガイジンは日本の心=ZEN=仏教と思っていて、この日本映画はZEN=曹洞宗として世界に向けて作られた作品であるということです。これに不服を申し立てる新たな仏教映画が今後出てくれば、それはそれで面白いことになるでしょう。それこそが日本における政治映画の開花です。
さて、実際に子を持つ私は、上記のキサーゴータミーのエピソードの始まりあたりから映画終了まで、道元の言葉に映像効果と音楽も重なって、ほとんど涙が止まらなかった(ヤバい!洗脳されたか?でも道元が悟りに至る、まったく今風ではないシーンはカッコイイ)のですが、その中でもしっかりと批判が描かれています。
道元、親鸞、日蓮など名僧を排出した比叡山延暦寺は平安時代すでに政治権力と結びつき武装化し、ここで描かれる鎌倉時代には延暦寺の僧たちがさらに武力を強め、酒と色欲にまみれる姿がみられますが、それは道元の弟子が色欲(ただの恋心)の鬼に負けたことで自ら寺を出て行く悲しいシーンを描くことによって否定されます。
南無妙法蓮華経の御題目を唱えなければ国が滅びると言った過激な日蓮宗、南無阿弥陀仏の念仏を唱え続ければ極楽浄土に往生できると言った浄土宗も「仏とおなじ形でただひたすら坐ることのみ、それが最高の修行である(只管打坐)」と言い続けた道元のいたってシンプルな教えによって無力化されます(映画の中のお話で)。
「死後ではなく今の世が浄土でなければ意味が無い」という少年時代の純粋な疑問をひたすら追求したのが曹洞宗を興す原点となっているからどこの国の人にも伝わり易いのだと思うのです。また、悪人正機説を唱えた親鸞(浄土真宗)とは親戚関係とか親交があったなど伝えられますが、親鸞の教えもZEN とは対極のTARIKI (他力)として、これもガイジンにはよく知られた仏教思想です。
そこで、これは映画作品なのだということで考えれば、例え歴史モノであっても、それは現代の世に伝えるべく作られたということです。
道元は友人である源公暁が貧民の子(後の“おりん”)の盗みを咎め斬ろうとしたときに「天下人を目指すなら貧民を責めるのではなく貧民のいない世の中を創るべき」だとその子を助けますが、これがまさしく現在の日本(または世界)に向けられた言葉です。
マスコミは何かと派遣労働者ばかりにカメラを向け、まるでそこがこの国の最下層であるかのような底上げの社会を作っています。そこを勘違いしてはいけないのは、ある意味、社会の光が当たっている派遣労働者よりも、もっと貧しい人が多く存在しているということです。政府はそこ(派遣労働者)から下は「一切助けない」というボーダーラインを引いているということです。そして、そこが犯罪の温床に成りうるということです。
そこで後半に登場するのは庶民を積極的に保護する救済政策を採っていたといわれる北条時頼(藤原竜也)という名君です。この人は後に出家します。悪霊に取り憑かれて狂った時頼のエピソードでひとつの物語が完成されているんですが、時頼役の藤原竜也の登場(「トキヨリだ!」)から、道元の教えを受けて最後“坐る”まで、これもまた名シーンです。
仏教(宗教)は人の思いの方向を変えることは出来ても、命を救ったり、生活を助けるものではないということを描き、民衆(国民)の生活を第一に考えるのは天下(国家)であるということを、この作品全体を通して伝えているのではないでしょうか。
付録
- 子
- 父さん父さん!
- 父
- お〜っ、マサユキ遅かったじゃないか。
- 子
- 父さんの話が長いから終わるの待ってたんだよ。
- 父
- そうか、お前には難しすぎたな、もっとファンタジー系の話がしたかったんだろ?
- 子
- まぁね、最初に言っちゃうと、道元が中国留学の終わりに曹洞宗の印可を受ける儀式を見て、あれはイスラム教のお祈りの仕方といっしょだと思ったんだ。
- 父
- マ、マサユキ!
お前、いつからそんなに賢くなったんだ!
- 子
- もう13ヶ月だからね。
- 父
- うん、確かに似ていたな。
床に小さな布を敷いて、両手の間に頭を着けることを繰返すのは如何にもそう見える。
教典もなく、教えは説くものとして言葉で伝えられたというコーランとよく似ているし、他に依存してはいけない、自分の中に仏が存在している、という教えが偶像崇拝を何となく嫌っているようにも感じるな。
- 子
- やっぱり曹洞宗を武力弾圧していた叡山は、イスラムを悪として攻撃するアメリカ帝国と重ねて見てもいいってことだよね。
- 父
- コラコラ早まるな!
この場合はもっと複雑だと思うゾ。
天台宗だってインド仏教やヒンズー教だけでなく、宇宙史観や善と悪の二元論を説いたゾロアスター教の影響もありそうだ。
ここではアメリカ的な帝国主義は除外した方がよさそうだな。
この映画で父さんが気になったのは道元を支援していた波多野義重だ。
波多野氏のルーツは現在の神奈川県秦野市にあって渡来人である秦氏(はたし)が語源となっているんだ。
そういった渡来人の血を引く者がイスラムの影響を受けた思想(と勝手に決めてますが…)を支援することが興味深いことなんだよ。
- 子
- えっ、秦氏はイスラム教なの?
- 父
- いや、そうじゃない。
秦氏、というか渡来人というのはキリスト教の影響を受けたり、古代ユダヤ教の影響を受けたりしていて、紀元前から何度も日本に渡って来ているらしいから、ひとつの思想ではないということだ。
余談だけど、平安から鎌倉時代にかけて神仏習合といって寺院と神社が接近したり、どちらかを支配していたんだけど、鎌倉時代では延暦寺が祇園社(八坂神社)を支配していたんだ。
また、京都太秦(ウズマサ)にある、秦氏が建てた広隆寺で10月12日に行なわれる牛祭では、神道で読まれるはずの祝詞(のりと)が読まれるんだよ。
- 子
- それで?
- 父
- それで、武装化した叡山の僧侶たちは幕府に抗議があると、神輿を担いで山から下りて来て暴れるというんだ。
それを抑える役目が波多野義重の務めるところの六波羅探題なんだよ。
これは今で言うとCIAみたいなものなんじゃないかな(自信ないけど)?
そして旧平清盛邸がその本拠地として使われたと言うんだけど、平清盛の一族というのは「イスラム教の影響を受けた海洋性民族ではないか」と副島隆彦氏は「時代を見通す力」という歴史考察本で言っているんだ(副島先生は政治学者であって私のようなファンタジー系ではないのでこれ以上は掘下げてません)。
- 子
- なるほど。
渡来人の中にもイスラム教の影響を受けた人たちがいるっていうことだね。
- 父
- そう、それが言いたかったのサ。
- 子
- でもそれが結論ではないよね?
- 父
- サスガだな、マサユキ。
現在、アメリカ発の金融危機によって世界的恐慌に陥ろうとしているんだけど、それと同時に今までのようなアメリカ式のグローバル資本主義も衰退していくと思うんだ。
そこで最近注目されているのがイスラム金融市場なんだ。
“イスラム”と言うと何となく悪のイメージが付けられているけど、それもアメリカが原油の利権を独占する目的で戦争(侵略)するための詭弁だったのサ。
- 子
- イスラム金融市場ってどんなの?
- 父
- 最も有名なのはイスラム法に則った“銀行は利息を取ってお金を貸してはいけない”という無利子制度だ(但しドバイにはデリバディブというある意味利息のようなものを産む商品取引場がある)。
我々の常識で考えたら理解できないかもしれないが、シャリーアというイスラム教における教義の全体像を見ればそれはいかに合理的で、我々が常識だと思っていたものが、実はユダヤ人が儲けるために作った非合理的なシステムだったかがわかってくるだろう。
今、イスラム金融市場が注目されている。
それが結論だ。
- 子
- へぇ〜、この映画にはそんなことまで隠されているんだぁ。
- 父
- 映画って?
- 子
- 「禅 ZEN」だよ。
- 父
- ……!
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