オンリー・ゴッド []
「ドライブ」で日本初上陸し、映画ファンの熱狂を攫ったニコラス・ウィンディング・レフン監督の新作。またしても「ドライブ」で主役を張ったライアン・ゴズリングとのタッグ作、という事で期待も高まっていた作品です。
ところで私は、「ドライブ」公開時に記念として限定ロードーショーされた「ヴァルハラ・ライジング」という作品がありまして、実はこっちの方が「ドライブ」よりずっと好きなのです。ある意味、好対照な作品で。
「ドライブ」が所謂エンタメとして作られているのに対し、「ヴァルハラ」はとても個人的、自らの表現欲求を優先させて作ったと思える作品なのです。故に抽象的だし、分かりにくい所も多々、些か自己満足的な所も散見します。が、私はそういった作品の方が好きなんですよねー。エンタメは、所詮エンタメ、その時は楽しいけど、あんまり心に響かない。もっと心に傷を負わせる様なものでないと。
で、この「オンリー・ゴッド」。なんと嬉しい事に「ヴァルハラ」系の作品でした!・・・ま、だからこそ「ドライブ」を熱狂的に支持した人々からはブーイングを買っている様ですが・・・それはしゃーない。そんな人たちは別人種だから。で、私は敢て断言します。この「オンリー・ゴッド」は「ドライブ」より何倍も面白い!!!と。
この映画で印象的なのは、終始何かを含んだ様なライアン・ゴズリングの表情です。この表情、どこかでみた事があるような・・・と思っていたら、フッと思いつきました。「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥール(R.I.P.)ではないか!ロレンスが拷問されるシーンでの表情に似てる様な・・・。
つまりはこれは、マゾヒストの表情なのです。マゾヒストとは、その純粋な意味では、絶対を求めている人です。自分を圧倒し、押しつぶす、絶対的なものを求めている人。個人的な神を求めている人です。ライアン・ゴズリング演じるジュリアンは、絶対を求めてタイまで流れ着いた人間です。
もちろん、ストーリー上は、犯罪組織のリーダーであった自分の父親を殺してしまったが故に、アメリカから逃げてきて、タイでドラッグ商売をやっている、という事になっています。しかし、それは表面的な事で、ジュリアンは常に絶対を求めているのです。それ故の、必然的な“闇の奥”への流浪。周りの人間には、ジュリアンが理解できません。
ここで、兄が殺されるという事件が発生し、そのためアメリカから母親(死んだ父親の代わりに組織を牛耳っている)が乗り込んできます。この母親がまた、典型的なテリブル・マザーで・・・、子供を完全に自分の支配下に置こうとする恐いおばちゃんです(クリスティン・スコット・トーマスが好演!)。ジュリアンはマゾヒストですから、もちろん母親に支配されているのですが・・・。
ここで大切なこと。親とは、子供にとって、偽物の神でしかない、という事です。まだ無力な幼児の頃から支配できますので、あたかも絶対的な神の様な幻想を生み出せます。しかし、それは本物ではない。真の絶対を求めるマゾヒストは、故に偽物の神を倒さなくてはならない。だからこそ、ジュリアンはまず父を殺した訳ですが、次は母親です。どうするか。どうすべきか。
ところが、事態は意外な展開を見せます。ジュリアンは、母親を倒す前に、絶対と思える存在に出会ってしまったのです。そして、その絶対と思える存在は、自分より先に母親を倒してしまう・・・。
この作品はホドロフスキーに捧げられています。レフン監督はホドロフスキーと長い付き合いがある様で、ことあるごとにホドロフスキーのタロットリーディングを受けているとのこと。それは素晴らしいことだ!
しかし、惜しむらくは、やはりホドロフスキーの作品に較べると、この作品は見劣りします。それは多分、「ドライブ」の様な商業作品を器用に撮れてしまう所にも原因がある様に思われます。レフン監督は、テレビドラマや高級ブランドのCMなんかも手掛けている様で、その事でホドロフスキーに叱責されているといいます。カネのために作品を作るな!真に自分の撮りたいものを作れ!と。
それに対してレフン監督は「その通りだけど、自分に対する出資会社が絡んでたりとか色々しがらみが・・・」と言い訳します。まぁ、それは分かります。分かりますが、それがなんともいえない中途半端感を生んでいるのも事実。
この「オンリー・ゴッド」も、もう少しいけるやろ!感に溢れています。むろん、凡百の他の映画に較べたら最高なのですが、でも、もう少し、上にいける!いけるはずだぁ!
この点が、これからのレフン監督の課題ではないでしょうか?もし本当にホドロフスキー&メビウスの「アンカル」を撮るなら、それまでにこの問題を解決しておいて欲しいものです。なーんて。
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