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2012年01月03日(Tue)

「リアル・スティール」 []

Text by Matsuyama

西暦2020年の近未来。ボクシングはリングの中で生身の人間が闘うことが禁止され、操縦者によって遠隔操作された高性能の格闘技用ロボットが闘う世界に変わっていた。筆者はこの作品の中に、ポピュリズム運動の敗北と、それでも止むことのない、権力に対する大衆の抵抗を見た。

(ストーリー、結末に触れているので御注意を!)

元プロボクサーのチャーリー(ヒュー・ジャックマン)はロボットのプロモーター兼操縦者として生計を立てているが、貧しいが故に手に入れられるロボットもオンボロだった。けっきょくのところ、ここで描かれた近未来は資金力のある者が表舞台で勝ち残れる世界。経済的弱者には勝つことの出来ない、すなわち富を手にする道が絶たれた世界ということだ。

チャーリーはボクサーとしての夢のために家族を捨てていた。しかしチャンピオンになれないまま時代は変わって彼は敗残者となった。母親の死亡によって突然現れた息子・マックスは11歳。チャーリーはマックスが産まれたときに家族を捨てたというから、それは2009~2010年頃のことだ。

オバマ政権が発足したのはまさに2009年1月20日のことだ。歴代大統領と同じくオバマもまた金融財界人の操り人形(ロボット)として大統領に仕立て上げられたことに違いはないが、就任当初は内なるポピュリズムの実践を試みたことも事実である。

「ポピュリズム」の意味を今の日本でほとんどの政治家や学者までもが「メディアを駆使した大衆迎合主義」のように認識していて、そう書かれたいくつかの書籍まで存在しているが、それは意図された誤訳だ。
「ポピュリズム」とは政治イデオロギー・信条の一つであり、政治家の役割は一般人、労働者、農民の代理人であると主張し、富と権力の集中に対抗する政治思想なのだ。アメリカの歴史において「ポピュリスト」とは大衆の支持を得ている政治運動家のことであり、エリートよりも一般大衆の利益のために活動する者だと理解されている。まやかしで支持を集めることはポピュリズムとは呼べないのである。

オバマが任命した長官たちは主に金融財界・権力と距離を置く者ばかりだったが、就任直後からスキャンダルなどによって辞任が相次いだ。けっきょくヒラリー・クリントンが国務長官に収まり、金融財界人たちによって金持ちのための金融政策は保護された。「ポピュリストとしてのオバマ」はあっけなく消滅したのである。

2020年、マックスによって崖っぷちの泥の中から掘り起こされたロボット「ATOM」は、どこか人間らしい闘い方に見えることで大衆の人気が高まってくる。それはコンピュータ制御、自動操縦などが備わっている最新式ロボットとは違い、人間に似せて作られた見た目やアナログ特有の作動音も相まって、ATOMには前任ロボット「ノイジー・ボーイ」に備わっていた音声認識機能を使って操縦者の指令に従って闘うことと、元々備わっていたシャドー機能によって操縦者の動きをそのまま真似ることができるからだ。

アングラ試合から勝ち進み、プロのステージ「リアル・スティール」の前座試合を勝利で飾ったATOMの実質上の持ち主であるマックスはリング上から、全試合1ラウンドKO勝ちの世界最強ロボット「ゼウス」(のオーナー)に戦いを挑む。

前座試合の直前にゼウスのオーナーであるロシアの大富豪のファラ・レンコヴァが大金を積んで「ATOMを売れ」と言ったことにマックスは、チャーリーの大金への興味を無視して「NO!」を突きつけていたのだ。「どうしてファラが欲しがると思う?アトムが他のロボットとはタイプが違うからだ」と言うたかだか11歳のマックスの台詞ひとつひとつが富裕層に対するポピュリストの言葉として響いてくるようだ。
前任のロボット「ノイジー・ボーイ」がボロボロに負けてスクラップ同然になったことに我慢できなかったマックスはボクサー時代の経験をロボット・ボクシングに反映させないチャーリーに「どうして戦略を持たないまま闘うのか?」と訴えたこともあったのだった。

アトムVSゼウスの試合は互角とは言えないまでも、アトムは何度かダウンを取られながら最終ラウンドまで漕ぎ着けるが、とうとうゼウスの攻撃によって音声認識機能がショートした。これでアトムの負けが決定したかのように思われた。すっかり諦めモードのチャーリーにマックスは言い聞かせた。
「Yes you can ! 」
本来ならここまで子供に言われたら笑うしかないが、この時点で筆者はこの幼い革命家に尊敬の念さえ抱いてしまったのだった。

シャドー機能に切り替えられたアトムの前にボクサー時代のチャーリーが蘇った。ボクサーとして闘うことを止めて“ロボットを操る側”になったチャーリーが再び生身の体を使って闘う(シャドーではあるが)ことになったのだ。マックスが初めて見た「オヤジ」の姿だった。
戦術が功を奏してアトム(チャーリー)は完全に戦力を失ったゼウスからダウンを奪ったが、試合終了のゴングがそれを救った。

それでも勝者はアトムだと観衆は疑わなかった。

富を握る者が権力を握ってきた人類の長い歴史の中で、ポピュリズムは敗北の連続だった。おそらくこれからもポピュリズムの革命は達成できることはないだろう。

リアル・スティールの判定は確かに不当なものではなかった。
しかし権力への抵抗、そして人間らしい生き方を目指す者にこそ一般大衆が支持するのである。どうせ必ず負けるからといって闘いを止めたときに人は従順な羊へと転落するのかもしれない。そこで待っているのはジョージ・オーウェルが「1984」で書いた統制社会だろう。
権力に果敢に立ち向かった者が賞讃されることでギリギリの線で健全を保っている近未来。日本のハイテク技術やサブカル文化へのオマージュはどうでもいいと思ったが、取りも直さず望ましい近未来を描いた映画として、もちろん父子の絆を描いたことも疑うことなく筆者は楽しむことができたのである。

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