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2011年09月14日(Wed)

「さや侍」 []

Text by Matsuyama

監督作品を3本とも劇場で観てきたのだが、筆者には松本人志がなぜ「天才」とか「カリスマ」とまで呼ばれているのかが結局のところ未だ分からないままだ。残念ながら伝説(?)の「ごっつええ感じ」を一度も見たことがないからなのだろうか?

最初に結末に触れてしまうので注意していただきたい。

鞘(さや)しか持たない脱藩侍の野見勘十郎は、幼い娘を連れて逃亡の末、とある藩に捕えられた。母親の死からまったく笑わなくなった城の若君を笑わせるために「一日一芸、30日の業、達成できれば釈放、できなければ切腹」を言い渡される。日が迫るにつれ牢屋の門番や藩主から温情ある計らいをうけながらも、自ら切腹を選び、介錯を制して、腹を割いた刀を死にもの狂いで鞘に収める。

話の流れからして三谷幸喜の「笑いの大学」にソックリな気がしてならないのだが、30日の業の間の野見には「笑いの大学」の座付作家、椿一の努力の微塵も感じられない。その不甲斐なさから、娘に見せられる唯一の武士の誇りが切腹なのだろうが、言うまでもなく主役はド素人だし、子役は台詞をモノにできていないし、サポートは板尾と柄本明の七光り君だから非常に薄く感じられた。正直、筆者は野見が腹を割いたときに、前夜食べたトウモロコシの粒がバラバラとこぼれて、若君がドッカンと笑うのかと期待していたのだが、残念ながらそうはならなかった。

松本監督は一応「泣かせる」映画として作ったらしいのだが、泣けるかどうかは別にして、あくまでもテーマは「笑い」だ。そうやって考えると、30日の業の終わりが近づく頃、野見の芸が観客に公開されるようになり、それと同時に娘が口上を始める。「父上、はやく自害してください!」とばかり荒くツッコんでいた娘が、観客の前では口上で父の芸を生かすようになる。言うまでもなく、お笑いコンビそのものではないか。

おそらくこれは現代のテレビバラエティや松本自身を投影させた超自虐映画なのではないのかと思う。
城内はテレビスタジオで、裁きの壇上はとりわけディレクターブースのようで、さらに野外ロケもある。門番の二人や藩主と家老の関係もまさしくそれぞれボケとツッコミであり、賞金稼ぎの3人はトリオ漫才に、ということを意識したようにも思われるが、そんな演出は映画に限らず劇を創るうえでは基本中の基本なわけで、あえて注目するまでもあるまい。

さて、野見の芸に門番や藩主たちも笑い、大勢の民衆も笑いを求めて観客となるなか、しかしそこに笑わない子供がひとり。

若君
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「王様は裸だ!」

というより
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「スポンサー降りるよ!」かな?

いやズバリ
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「くっだらねぇ…」か…
ってことはやっぱり、裸の王様?

やはりこの作品は「松本は天才なのか?」という松本自らの問いなのである。スタッフにも観客にもウケるのは果たして自分の才能のみによるものなのだろうか?それとも「松本」はテレビによって勝手に大きな存在にされ「天才」というレッテルを貼られてしまったのではないだろうか? という疑問であり告白なのではないかと筆者は思うのである。
軽いマスコミ批判ともいえるのが「大日本人」であり、天才という箱に閉じ込められ、提供されたネタで笑いを創るという状況から抜け出そうともがいていたのが「しんぼる」だったとすれば、もしかしたら「才能=刀」を持っていないかもしれない自分だけがシラケている状況、つまり…

これも松本の目?
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「誰も本当の笑いを知らない…」

とにもかくにも、だとすれば、野見の切腹に匹敵する松本の覚悟とはいったいどんなものなのか?

兄貴分
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やっぱコレっすか?

ということで、お笑い芸人、松本人志に聞いてみたい。

「けっきょくこの作品もスベってると思うけど、今は何日目ですか?」

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