「悪人」 []
観てからしばらく経つが、イヤーな気持ちは未だ変わらず。
まず主人公の祐一(妻夫木)にはまったく同情できない。作品によっては小説や映画に倫理をあてはめるのが野暮な場合があるのはわかる。しかしこの作品はむしろ倫理を問う作品であり、それを前程とした上であってもなくても祐一にはぜんぜん感情移入できない。
一線を越えてしまうムッツリスケベの危険人物の人物像を掘り下げるのは悪くはないだろう。しかし、詐欺師やアバズレ、ボンボン学生、さらにはマスコミを「悪人」という枠にはめて同列に、いやむしろ殺人者の方がいかにも善人のように描かれているのはどうにも納得できないのだ。出会い系サイトでオンナと出会ってセックスして、携帯動画で裸写して、そして動転したらつい殺して、翌朝から平然と仕事して、また違うオンナと出会ってセックス…。これで何が孤独か?愛し方愛され方を知らなかったと? 何をどうやったら同情できるというのか。秋葉原の無差別殺傷事件の容疑者の方がよほど孤独だし、それこそ祐一と同レベルで描かれるべき人物像であると思うのだ。
しかも田舎の閉塞感を描いているつもりが、携帯電話やインターネットと車があれば今どき田舎だろうが都会だろうが若者はそれをすでに打開しているということを証明してしまっているではないか。
祐一に殺された佳乃(満島ひかり)と父佳男(柄本明)や母(宮崎美子)の親子関係もまた妙だ。祐一の母親代わりの祖母(樹木希林)もそうだが、この人達に育てられてなぜそうなるのか? という単純な疑問も湧いてくる。
柄本明と樹木希林によってこの映画はより重厚な作品になってはいるが、あまりにも娘、孫のパーソナリティーと結びつかない。親たちと子供たちのドラマがひとつの作品の中で一致しないのだ。娘、孫へ「本当に大切なもの」を伝えてこなかったという、現代の親子関係におけるコミュニケーション不足をいいたいのかもしれないし、その上で、親、祖母も「悪人」として描いているのかもしれない。にしても、ハッキリいってこれらの役は今や名優と呼ばれる2人(樹木、柄本)にとって役不足だと思うのだ。祐一と光代(深津)の2人だけが際立つべき作品ではなかろうか。
悪態ばかりついてもしょうがないので、好きな部分を上げると、オープニング、疾走する祐一の車がセンターラインによって表現されるところで、デビッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」が記憶から甦り「イイね!」と思った。
そしてラストの夕日のシーン。夕日のシーンはどんな作品でもオレの琴線に触れるのだ。
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