「バッド・ルーテナント」 []
他に誰も思い当たらないほどマクドノー警部補役にハマり過ぎていたニコラス・ケイジ(以下ニック)だが、そのキレた芸風といえば「リービング・ラスベガス(1995年)」が最も有名だ。しかしその原型は、自分をドラキュラと思い込み、玩具の牙を着けて夜な夜なディスコに繰り出し女性を噛み殺す役を演じ、ニック自身のアイデアで本物のゴキブリも口に入れたという「バンパイア・キッス(1988年)」にあるとオレは思っている。
そんなニックが200%(バンパイア・キッス比)で突き抜けたのが「バッド・ルーテナント」だ。
さて、ニック扮するマクドノー警部補はセネガル人の不法移民家族が殺される事件で、捜査の指揮を任命されるが、彼は薬物と賭博におぼれていた。
そんなマクドノーが悪徳刑事ということだが、善と悪に絶対的なんてものがないように、マクドノーが絶対的な悪ではないというのは当然のことだ。しかし、なんとオレはマクドノー刑事のことを絶対の善、絶対的な正義だと思ってしまったのだから困ったものだ。
社会的弱者でもある囚人、娼婦、不法移民の声にマクドノーの心は動かされるが、心の動きというものは端から見てそんなに劇的なものではない。だからかどうかは知らないが、マクドノーの心の動きはわかり易くは描かれていない。その人々のために身を投げ出すマクドノーは、けっきょく誰も殺してはいない。誰も殺さないのが善なのである。
偽善者的な金持ちの婆さん(←捜査を邪魔する)が暮す高級介護施設に、ヒゲを剃りながら現れる(しかも終止ラリってる)マクドノーの姿は正にヒーロー登場だ。爆笑!
けっきょくその婆さんを半殺しの目にあわせて「オマエなんか早くくたばってしまえ!」などと暴言を吐くところは「酷い!」と言ってしまえばそれまでだが、現代の日本やアメリカのような、ごく一部の層が富を独占して分配しないような社会においては、底辺層から見れば痛快なシーンである。拝金主義者や権力者を誅するような映画は数あれど、その相手が車椅子の老人なのは「ゆきゆきて、神軍(1987年)」くらいしかオレは知らない。
薬物まみれになって幻覚を見ていたり、署まで博打の取り立てが来ても周囲は見て見ぬ振りで、けっきょくマクドノーに丸投げの、ある意味オトリ捜査だったってことがだんだんとわかってくる。
マクドノーに如何なる見返りがあろうとも、彼は自分が朽ち果ててゆくことを知っている。
正義の名の下の暴力は自分に向けられるもの、つまりは献身なのである。
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