「ダウト ~あるカトリック学校で~」 [☆☆☆☆]
23年間京都府民として生活してきた私は、昨年の9月より晴れて大阪府民となりました。大阪府といえばタレント弁護士として有名な橋下徹大阪府知事でおなじみですが…って書けば、如何にも批判的すね。そういうわけで、 最近読んだ本が『橋下「大阪改革」の正体(一ノ宮美成、グループK21著、講談社)』でした。そのタイトル通りの批判本なのですが、この本の内容が実に面倒くさい。冒頭から事細かに大阪府の財政について数字データを並べて、橋下知事の財政再建プログラムを検証しているのですが、何ぶん数字に暗い私にはチンプンカンプンです。
全体的な内容としては、この私のように、橋下がタレント弁護士としてテレビ番組に出演していたときから胡散臭く思っていた人間にとって何ら目新しいことはありません。
そして決定的に著者が見落としていることがあります。それは「橋下を支持する一般府民(国民)に読書層はいない」ということです。
それと、左翼的な暗さによって読み物としての魅力のようなものが損なわれていることが、この本の分の悪さでもあります。クソと言われたらクソと言い返せばいいのですよ。
橋下が公務員である府の職員たちや府民と、どのように関わっていこうとしているのか、医療、福祉問題や教育問題について、どのような思想を持っているのか、それさえ伝われば、彼は再選されることはないでしょう。
橋下はまず、公務員は税金を食らう悪であるという性悪説を元ににマスコミを席巻し、職員からの反対意見は「抵抗勢力=悪の枢軸」としてテレビ報道を通して猛烈にバッシングします。
民間のコンサルタント会社に依頼して、府の窓口業務を覆面調査させて職員の素行調査をしたり、橋下が不必要だと唱える公共施設の職員の働きぶりを秘書にビデオで隠撮りさせるなど、旧東ドイツさながらの恐怖政治を行なっているのが実状です。職員を疑い、マスコミを使って府民の鬱憤を公務員にぶつけさせるという手法をとられては地域の職員たちはたまったものではありません。知事と職員が一丸となっていないばかりか、府民と職員の関係もギクシャクしてくるでしょう。私は役所の窓口で「ありがとうございました」なんて言って欲しくはないのです。「ご苦労様」と言われて、こちらから「ありがとう」と言える関係でいたいのです。
教育方針に至っては、公立高校の学区制度をなくし、京大、東大に大勢の合格者を出すスーパーエリート校をつくるのだとか。「どうぞ勝手に」と言いたいところですが、スーパーエリート校が生まれるのと同時にスーパーワースト校が生まれるということを忘れてはなりません。そこに橋下の「徴兵制の復活を!」という思想が、まったく無関係ではないような気がする…などと話は尽きませんが、続きはまた後ほど。
ちょっと前置きが長くなったようですね。映画「ダウト 〜あるカトリック学校で〜」に話を移します。
舞台は60年代、ブロンクスのカトリック学校。校長のシスター・アロイシス(メリル・ストリープ)は周りに恐れられるほどの厳格な人物。学校を堕落から守るため、常に生徒たちに疑いの目を向け、規律を乱す生徒がいれば厳しく叱責します。
一方「爪は清潔にしていれば伸ばしても良い」と、明るく現代的なものの考え方で人望のあるフリン牧師(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、そんな校長を教会での説教で批判します。
その二人の間で揺れ動く若い教師シスター・ジェームズ(エイミー・アダムス)の視点で物語が描かれております。
校長シスター・アロイシスは、生徒たちには常に疑惑の目を持ち、ちょっとしたことでも校長に伝えなさいとシスター・ジェームズに言いつけます。
鼻血を出す生徒は早引きするための自作自演であり、転校してきたばかりの校内で唯一人の黒人生徒は、他の生徒からいずれ暴力を振るわれるから目を離さないようにとシスター・アロイシスは言います。そして授業中に教師の目を盗んで席を離れる生徒を注意するためシスター・ジェームズに“背中の目”を与えます。
ある日、授業中にフリン牧師が、黒人生徒を呼び出し、牧師の部屋で何かがあったことがシスター・アロイシスの耳に入ると「恐れていたことが起こった」と、新たな疑惑に奮い立ちます。ここから校長シスター・アロイシスとフリン牧師の壮絶な戦いが始まります。
フリン牧師と黒人生徒の間に何があったかは、まったく描かれることはなく、数々の証拠も証言も決定的なところには至りません。シスター・アロイシスは神聖な学校の伝統を壊そうとするフリン牧師を排除するため、この時とばかりに疑惑が現実のものであることを信じ続けます。
そして、私たち観客にも、その真相は一切明かされず、真実は今もなお闇の中です。おそらく、この映画を観た人たちも結論としてはアロイシス派、フリン派と二分することを前提としてこの映画は作られているようです。ここまで観客に委ねる映画も珍しいとは思いますが、私たちはその答えを、自分なりに導きだすことでこの映画のそれぞれの完結があるのです。
監督、脚本はジョン・パトリック・シャンリィ。自身の戯曲の映画化です。9.11を受けた対テロ戦争後のアメリカ社会を想い描いたようですが、イラクの破壊兵器のように、証拠もなく攻撃を前提とした疑惑を喧伝するのがシスター・アロイシスの正体なのか、それともカトリック教会学校に新しい風を吹かせつつ、子供たちの理解を得ながらも、実は小児性愛者というのがフリン牧師の正体なのか…。それは神のみぞ知ることなのでしょうか。
再び話は『橋下「大阪改革」の正体』に戻ります。
私はそこに面白い言葉を見つけました。「フレンドリー・ファシズム」という言葉、「ファシズムは 明るく笑顔で やってくる」と川柳風でも書かれております。
庶民感覚で弁護士とは「人権派、庶民派」というイメージが付いてしまっているようですが、弁護士としての橋下徹は企業弁護士、つまりは個人の訴えから企業を護る立場にある弁護士です。特に消費者金融(サラ金)におけるグレーゾーン金利に対する訴えでは負けたことがないということが彼の自慢とするところです。つまり弁護士橋下にとっての敵とは、個人、庶民、弱者なのであります。
そんな「クソ弁護士橋下」が連日のテレビ番組で、視聴者に耳障りの良い言葉と“知事選にまったく興味のないフリ”をしながらマスコミを最大限に利用した、いかにも裏表のなさそうな本音キャラで庶民に近づくこと、これが「フレンドリー・ファシズム」です。
知事の一声で給与を減額され、副業も禁止されている公務員たちは同情に値しないのか? 公用車でフィットネスクラブに通い、爆笑問題・(小泉・竹中改革を支持する)太田光の個人事務所タイタンに所属して、タレントとして文化人枠を逸脱したギャラを手にする知事・橋下徹は批判に値しないのか? 今こそ大阪府民としての民度が試される時ではないだろうか。
さて、いつの世でも独裁者とは欲にまみれ、堕落した生活を送っているのが事実です。では、いかにも独裁的なシスター・アロイシスはどうでしょう。彼女は自分に対しても、他人と同様の厳格さを強いており、質素な生活を送っています。
一方、フリン牧師はといえば教会上層部と共に連日ビールを酌み交わし、贅沢な食卓を前に、下品な会話に花を咲かせているという、自由な生活を謳歌しているようです。
ではシスター・アロイシスの厳格さは何からもたらされるものなのか? それは彼女が長年にわたり校長の職に就くなかで、生徒のことをしっかりと把握し、学校すべてを熟知してきたことです。
鼻血を出した生徒は、実際にサボってタバコを吸い、黒人生徒はイジメに合っています。また、シスターたちの中には、視力が落ちてマトモな生活がままならない老齢者がいます。それが上層部に知れると彼女は不自由な身体のまま教会を追い出されてしまうため、その老齢シスターへの注意も怠りません。
私はただ冷たく厳しいと思っていたシスター・アロイシスの瞳に暖かさがあることに気付いたのです。彼女もまた、かつて戦争によって夫を亡くす悲しみを味わった社会的弱者だったのです。
シスター・アロイシスの執拗な個人攻撃に疲れたのか、密室で黒人生徒との二人にしか知り得ない真相は明かされないままフリン牧師は自ら教会を出て行きます。とは言っても彼は上層部に取入って出世したのです。
フリン牧師の追放を遂げたシスター・アロイシスですが、それでも「疑惑」という感情からは解放されないことに打ちひしがれるのでした。
この作品は観客たちが方々で議論することを目的に作られたと私は思うのです。私はシスター・アロイシスは過剰ではあるけれども、彼女のキャラクターが好きです。多くの人がそう思うのではないか、と勝手に思い込んでもいます。
しかし、仮にフリン牧師が堕落した神父だとしても、それ=小児性愛者ではないことを考えれば、昨今の国策逮捕のような、権力による謀略であるという疑いも浮上します。フリン牧師に分があるとして、彼を冤罪被害者ではないか?という立場で見れば、それなりの理屈が生まれるということです。
フリン牧師が小児性愛者か否か、それだけを問題とするべきだとすれば、私はそれぞれのキャラクターに対する思い入れと思い込みのみで審判してはいなかったか? それは非常に危険なことであると、今ココに至ってやっと、そう思ったしだいです。
シスター・アロイシスの失敗は決定的な証拠のない疑惑を以て戦ったことです。小児性愛疑惑を抜きにしても、彼女は時間をかけて、教会内、学校内の堕落と戦うべきだったのです。宗教的なことはよく分かりませんが…。
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