この胸いっぱいの愛を [☆★★]
伊藤英明、少年期を過ごした門司に降り立ってみるとそこは20年前だった! ババーン! って、またまたタイムスリップものですか? 流行っているのでしょうか。
いきなりネタバレ恐縮ですが伊藤英明、勝地涼、宮藤官九郎、倍賞千恵子らは、1986年門司になにがしかの「後悔」を残しており、その「後悔」が消えたとき、スーッと……という、なんだかよくわからないお話です。
主人公・伊藤英明の場合。子供のころ親しくしていた隣のソバ屋の姉ちゃん=ミムラさん、彼女は東京の音大を首席で卒業したにもかかわらず、門司の実家にひっこみ無為の日々を過ごす、なぜなら彼女は脳腫瘍をわずらっており、手術してもヴァイオリンが弾けなくなるなら生きていく意味なし! と死んじゃったのですけど、そのミムラ姉ちゃんに手術を受けさせることができなかったことをズッと後悔していたのが伊藤英明の場合。
ミムラ姉ちゃん生きている1986年にタイムスリップした彼は、彼女に「生きたい!」欲望を持ってもらおうと一計を案じます。
それは、激しくネタバレですが北九州公演にやってきたオーケストラに、ミムラ姉ちゃんと共演してもらおう! という計画。一体どうしてそんなことが可能なのか? いかなるトンチが駆使されるかワクワク?
ところがですね、伊藤英明、オーケストラリハーサル中会場にズカズカと乗り込み、「お願いします!!」と土下座! お前は『世界の中心で、愛をさけぶ』の「助けてください!!」か?
その後どのようなやりとりがあったかは描かれずコンサート当日、ミムラ姉ちゃんはぶっつけ本番、見事オーケストラと共演を果たします。ミムラ姉ちゃん「こんなんじゃダメ! あたし、もっと巧くなりたい!」と生への欲望わきおこっって手術を受けるのであった…と、なんともうしましょうか、これは「ご都合主義」以前の問題ではないかと。
伊藤英明が指揮者の方に何を吹き込んだか知りませんが、海のものとも山のものとも知れないミムラ姉ちゃん、なぜオーケストラと共演できてしまうのか? がわかりません。
プロのオーケストラなら、リハーサルなし、ぶっつけ本番でミムラ姉ちゃんと共演なぞしないでしょ? ミムラ姉ちゃんがもの凄い実力の持ち主、プッツリ消息を絶った伝説のヴァイオリニストだった、とか、指揮者の人とミムラ姉ちゃんは旧知の間柄とか、腹違いの兄妹とか、ソウルメイト(前世では夫婦)で、彼女の実力をよく把握していた、とかなら別ですよ。
「料理」に例えるとよくわかると思うのです。門司観光ホテルが道場六三郎を呼んでディナーの会を催すとしましょう。そこに伊藤英明が土下座して、「ミムラ姉ちゃんは東京の料理学校を首席で卒業したんです! ミムラ姉ちゃんの鴨南蛮をディナーのコースに加えてください!」とお願いしたなら、道場六三郎は、「よしわかった。まずその鴨南蛮を食わせてみろや」というのが普通だと思うのですね。
いかにファンタジーとはいえ、ぶっつけ本番を、入場料を払って来場してくれたお客さんに聴かせる、なんてことは、ありえないのではないかしらん。これはものすごい「手抜き」である、と一人ごちたのでした。
また実は私、犬好きで『クイール』を見て泣き、テレヴィで盲導犬がかつてのパートナーと再会するの巻を見て泣き、「犬もの」にめっきり弱いのですが、この作品での倍賞千恵子と老犬アンバーの再会はどうにもこうにも、ワンちゃん全然嬉しそうに見えないし! 「嬉しそうにシッポを振ってるよ〜!」って、全然振ってないし! くはっ! 「泣くぞ泣くぞ泣くぞ泣くぞもうすぐオレは泣くぞ」と涙腺の蛇口をひねろうとしていたのに、この仕打ちはなんでしょうか。
さらにラストシーン。『タイタニック』みたいな感じで、羽根をはやした子供がウロウロするホテルのような部屋で一同が会されますが、そこどこやねん! 『タイタニック』なら犠牲者ほとんどキリスト教徒でしょうから、「天国」ということで了解できるのです。伊藤英明も勝地涼も宮藤官九郎も倍賞千恵子もアンバーもキリスト教徒なのか? どういうことぞ。
…と、色々難クセをつけてしまいましたが、お話、設定以外はなかなかよい感じ、ミムラ姉ちゃん良い感じ、門司の風景も良い感じ、オススメです。
☆★★(☆= 20 点・★= 5 点)
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