グランドマスター []
ブルース・リーの師匠であるイップ・マンは、ドニー・イェン主演の「イップ・マン」シリーズですっかり有名になってしまいましたが、そのイップ・マンをウォン・カーウァイが撮る!しかもイップ・マン役はトニー・レオン!という事で、大丈夫か?・・・というのが初めてこの映画の事をきいた時の印象でした。
いや、私はウォン・カーウァイもトニー・レオンも好きなのですが(「ブエノスアイレス」「花様年華」最高!)、あのスタイリッシュでオシャレな恋愛映画を撮るウォン・カーウァイがカンフー映画・・・、「グリーン・デスティニー」やってるけど、基本カンフーができないトニー・レオンがイップ・マン・・・と、やはり不安が募ったのです。
が、そんなのは全て杞憂でした。なかなかに斬新な、見応えのあるカンフー映画となっていたのです。
まず、トニー・レオンがいい。どうも何年かカンフーの修行をした様で、ものすごく様になってます。正にイップ・マンはこんな感じだったのでは!と思わせる佇まい。大金持ちの家に生まれて、40歳までは働く事もなく、好きなカンフーに存分に打ち込んでいた人ですから、殺伐とした所やがっついた所が微塵もなく、鷹揚で、優しく、静かに微笑んで立っている。しかしそこには隙がない、という、そんな感じ。素敵です。
次になんといってもチャン・ツィイーが素晴らしいです。あー、歳とったなぁー、とは思ったのですが、相変わらず美しいし、動きも華麗。彼女が兄弟子と駅で闘うシーンは、間違いなくこの映画のハイライトでしょうが、あまりのカッコ良さに震えました。ウォン・カーウァイのスタイリッシュな演出が、カッコ良さを、もー、煽る煽る!いっそこりゃマカロニだよ!と唸りました。
話の本筋にほとんど絡んでこないチャン・チェンもキレキレで良かった。ヤマネくんが「チャン・チェンは『グリーン・デスティニー』でチャン・ツィイーの恋人役でしたよね!あのシーン、絶対それを意識してますよね!」と言っていたのですが、私はヤマネくんと「グリーン・デスティニー」を巡って盛り上がったのは覚えているのですが、内容はもうほとんど覚えていない・・・ので、「そ、そうだったかな?」と、顔を引き攣らせて対応するしかなかったです。う〜ん、記憶が・・・オブリビオン。
この映画の画期的な所は、カンフーの精神性を中心に描いている事です。もともとマーシャルアーツは、形而上と形而下を合わせた技法体系であったはずですが、2度の世界大戦の後にその全一性は失われました。近代的な武器の前では、マーシャルアーツの達人といえども、あまりに無力だからです。
その事は、この映画でもはっきりと描かれています。それぞれの流派のグランドマスターたちは、戦争下では単なる無力な人間として、翻弄され、貧乏に喘ぎ、みじめな思いをします。それは戦争が終わっても同じ。香港に亡命した彼らは、祖国に帰る事もできず、逼塞しています。
ウォン・カーウァイは、その失われていくマーシャルアーツの全一性を、哀惜を込めて描きます。全てはノスタルジーの中で展開する様な映像は、とにかく美しい。
それから、カンフーアクションを描く時に使われる映像的ギミック(飛び散る水、スローモーション、ワイヤーを使った超人的な動き、など)が、この映画ではマーシャルアーツの精神性の比喩として使われている。この手があったか!と感心いたしました。
それにしても、チャン・ツィイーの秘伝中の秘伝の必殺技(正確には、チャン・ツィイー演じるゴン・ルオメイの必殺技)「葉底藏花」が結局劇中に描かれる事がなく、その技を一度観たいと熱望し、でも結局観られなかったイップ・マン同様、私も残念〜と思っていたら、トモコが「あら、あったじゃない」というので、ええ!ま、またしてもオブリビオン?と、焦って問いただせば「あの、駅での決闘シーン」というので、ん?あそこで「葉底藏花」を使うなんて説明あった?とさらに問い返せば、「説明なんてなかったけど、あそこで使うに決まってるじゃない。でないと兄弟子を倒せないでしょ。自分の師匠を倒したぐらいの腕前の相手なんだから。それにあの戦闘シーンは、「葉底藏花」を一度観たかった、というイップ・マンに語る話として出て来るし。なにより、チャン・ツィイーの髪の毛に小さな白い花がついてたでしょ。「葉底藏花」よ」。
そ、そうか。あんな恐ろしい決闘シーンに花なんて髪にくっつけるなんて、チャン・ツィイー可愛い!とか思ってた私が迂闊だったのか・・・。
ああ、「葉底藏花」が(もう一度)観たい!
Comments
投稿者 ウメドン・ゴダール : 2013年06月23日 13:47
レビュー面白かったです。参考になりました。
俺もグランドマスター観ました!
結論から言うと俺はダメでした・・・
以下、映画観てない方ごめんなさい。ネタバレ書いてます。
水墨画?が混ざったようなオープニングとエンディングはめっちゃかっこいいなーと思いました。
トニーレオンが2回も骨折して気管支炎になった土砂降りの中の決闘シーン。
これもかっこよかったです。
でもね・・・あれは二人演舞の「型」であって暗殺拳ではないです。
空手をやってた親父の息子として言うと、あれでは人は殺せないんですよ。
見た目の綺麗さを優先しすぎてるような気がします。
にもかかわらず人が吹っ飛びすぎたり衝撃で壁が破壊されたり、
あっこらへんはオーバー過ぎるし、笑っていいのか?
おー!かっこいい!綺麗っ!て思っていいのか?
そこらへん最後まで俺は馴染めませんでしたね。
ねじとL型アングルが衝撃で緩むシーンなんてのは笑ってしまいました。ありえへんて。
ケンタロウさんが新しい表現とおっしゃるスローモーションも
自分には使いすぎでウザかったです。
師匠の究極奥義「葉底藏花」「退いて押す」は単純にチャン・ツィイーの
あー顔が当たる!やばい。からの クルっと回って
ほっぺたビヨーン\O/攻撃からの掌底、機関車にドッカーンじゃないんかなと
思ってます。ちゃうかな?
チャン・ツィイー。マカロニですか・・・うーん・・・
俺にはスタンダードプードルでした。毛皮。
投稿者 uno : 2013年06月23日 21:17
グランド・マスター素晴らしかったですね!
トニー・レオンのイップ・マンの佇まいの美しさもさることながら、私はチャン・ツィイーのゴン・ルオメイが持つ気高さに完全にノックアウトされました。
沸山でのイップ・マンとルオメイの戦い。いや戦いではなく功夫を通じたコミュニケーションとでもいうのでしょうか。あの場面でスローモーションを使ったウォン・カーウァイの美学!
二人にとってあの場は一瞬であり永遠。
ルオメイの父(パオセン)がマーサンに倒され、ルオメイが父の葬儀に向かう途中で、マーサンの弟子に放った一言「天意は私よ!」の気高さ。
駅でのルオメイとマーサンの戦いで、ルオメイがマーサンを倒す技は、父がマーサンに教えようとして最後に放った技。ルオメイは父の教えを忠実に受け継いでいるんですよね。
そして頭に付けた白い花はそういうことだったのか!
時代が変わって香港でのイップ・マンとルオメイの再会。
病身で功夫を続けることが出来なくなっていたルオメイが「悔いの無い人生なんて味気ない」と言う、気高くも悔しさを押し殺す様が悲しくて。阿片を吸う姿に涙しました。
一瞬であり永遠!
最高の映画でした。
投稿者 元店主 : 2013年06月24日 00:43
お、ウメドン、久しぶりに書いたな。よしよし。
まぁ、相変わらず勘違いと誤解に満ちた凄い文章だけど・・・、でもせっかくウメドンが頑張って書いてくれたので、私も頑張って返事してみよう。
あのね、ウメドン。カンフー映画におけるアクションシーンは、「型」と「演舞」なんだよ。もしかして、ほんとに闘ってると思ってた?空手大会のドキュメンタリ−映像じゃないんだから、そんなのほんとに闘ってたら、ちっとも面白くないでしょう。「型」と「演舞」だからこそ、表現になるんじゃないか。基本が分かってない。
それに「暗殺拳」ってなに?そんなのあったか?いっとくけど、トニー・レオンはひとりも殺してないよ。ウメドン、映画のストーリーが分かってないよ。
それから「ケンタロウさんが新しい表現とおっしゃるスローモーションも自分には使いすぎでウザかったです。」と書いてるけど、私はスローモーションが新しい表現だなんて、どこにも書いてないから。もう一度、いや、10回ほど読み直してみ。
・・・読み直した?どこにも書いてないでしょ。ウメドンが勘違いした場所は分かるけど、こりゃまた杜撰な勘違いだな。私は、従来カンフー映画でよく使われる表現、その中にスローモーションも含まれるんだけど、それが精神性の比喩として使われているのが他の映画と違っていいな、と思ったと書いたんだよ。スローモーションが新しい訳ないでしょ。いつの時代や!あのスローモーションを、単なる(アクションの効果を狙った)スローモーションとしてとったら、そら退屈かもしれんけど。
それから、ウメドンは「葉底藏花」を「退いて押す」と一緒のものとしてるけど、それは違うだろ。それに、「葉底藏花」を、まるでコークスクリューパンチみたいな一発技と想像してるみたいだけど、それも違うと思うな。「葉底藏花」は型だろうが。だから、あの闘いのシーンで使われたチャン・ツィイーの動き全てが「葉底藏花」な訳。
結局ウメドンは、マーシャルアーツの精神性を描く、というこの映画のポイントが全く理解できなかったみたいだね。それなら面白くないかも。この視点を導入して見直してみれば、また違うかもよ。
あと、ウメドンの文章、別にネタバレしてないから。
つー訳で、次は「ある会社員」よろしく。期待してるぜ!
・・・あ!ウノピに返事書くスペースなくなった!
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