「ブローン・アパート」 []
筆者が「テロとの戦い」「対テロ戦争」などというフレーズに違和感があるのは、「テロ」が戦争のキッカケをつくるのではなくて、「テロ」そのものが戦争における攻撃手段だと思っているからだ。
テロの脅威、テロとの戦いと言っている時点で、テロリスト側からすれば、すでに戦争状態にあると認識しているわけだ。では、そのテロ、そして対テロ戦争の根底にあるものは何なのか? それは白人による人種差別だ。
この作品の監督はシャロン・マグアイアという人で、筆者には「ブリジット・ジョーンズの日記(1作目)」の監督ということ以外は何も分からない。
さて「ブリジット・ジョーンズの日記」といえば、ブリジットの母親の「残酷な民族だ」と日本人を差別するセリフがあることで「人種差別映画だ!」とヒステリーを起こした人も多かったようだが、冷静に見て、過去に日本人女性を嫁に迎えた(が逃げられた)英国人弁護士マーク・ダーシー(コリン・ファース)が差別主義者ではない誠実な人物だとラストに分かることで、この作品にはむしろ差別に対する批判が含まれていると筆者は理解している。だけど「イチイチ日本人を引き合いにだすな」と言いたい。
さて、幼い愛息と夫をサッカースタジアムで起きたテロで一瞬にして失ってしまう名前のない主人公“若い母親(ミシェル・ウィリアムズ)”の住むアパートはロンドンの下町イーストエンドという労働者階級の住むアパート。夫は警察の爆弾処理班で、その中でもいちばん危険な任務に就いて(というか就かされて)、家庭を顧みる余裕もないほど神経をボロボロにすり減らしていた。要するに被差別階級である。
「テロの裏に隠された真実」は、やや9.11事件に共通するところがあって、そこがこの作品の核心となるわけではあるが、いわゆる陰謀を暴く映画ではない。
テロの根底にあるのは、宗教や民族の差別であり、また、テロ情報を事前に掴んでいたのなら、その犠牲者を選り分けることにもやはり差別がある。差別がなければテロがなくなり、犠牲も出ないし、対テロ戦争もなくなる。米国が他国を侵略、強奪、干渉、イスラエルへの援助をただちに止めれば、世の中のテロはたちまちなくなるだろう。
今さら言うまでもないが、対テロ戦争はテロを助長させるものでしかなく、テロ国家(と一方的に呼ばれた)の国民すべてがテロリストでもない。米国とその従属国の言う「テロとの戦い」とは詭弁であって、本音で言えば「戦争がしたい!」だけだ。
強いて言えば“若い母親”の夫レニー(という名あり)こそがテロと戦っているのであり、何度も難しい爆弾処理をしながら命をつないできて、束の間の開放感を味わうために幼い息子とサッカーの試合を観に行き、そこでテロの犠牲になったことが非常に可哀想なのだ。
ただ、この作品はかなりヌルい。この監督は軟弱だ。やはりラブコメがお似合いなのかもしれない。
ここで物語の核心部分に触れると、情報を事前に掴んでいた警察当局がテロを黙認していたのは、警察当局の捜査上の都合ということになっている。しかし一方、レニーの上司がスタジアムの観戦者名簿にレニー親子の名前があるのを知りつつ告げなかったのは“若い母親”に恋心(下心)を抱いていたという真実も浮かび上がる。
このどちらもちょっと肩すかしな真実であるために、キャッチコピーの「警察がひた隠す驚愕の真実」がズバッと響くクライマックスがこの作品にはない。観終わって結局なにが言いたかったんだろうか?という感想しかない。「テロ」というものを、映画の中のひとつの事件としてしか捉えていない。
“若い母親”がカウンセラーに勧められた、オサマ・ビン=ラーディンへの一方的な手紙(もちろん届かない)だけが「すべてのテロへの関心」を証明するためのアリバイとして使われているが、しかし、なぜ今さらオサマ・ビン=ラーディンなのか?というところにも稚拙さを感じてしまう。
息子を失った母親の喪失感を描いている部分が、この作品をギリギリの線で支えているが、全体的にはつまらない作品だと思った。筆者がむりやり「この監督は差別を描いているんだな」と解釈しただけだ。
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