「告白」 []
評論家の呉智英(ご・ちえい)さんは「(身内や大切な人を殺された犯罪者に対する)死刑制度を廃止して仇(あだ)討ちを復活させよ」と唱えているが、オレもこれには同感だ。ただし、呉智英さんのことは知らないが、今のところオレはその当事者(遺族)になったことはないから、安易なことは言えないかもしれない。なぜなら、大切な家族がどんな残忍な手口で殺されたとしても、遺族たちは一様に「極刑に…」と言うばかりだから。「どうか無罪にして、早く釈放してください」と願って「自分の手で復讐してやる」なんて考えるのは、やはり遺族の気持ちが分っていないのだろうか。犯人の死刑が確定すれば、ほんの少しでも心が癒えるのだろうか。確かに復讐を遂げたとしても、そこで喪失感が埋められるという確証もないのかもしれない。
そういった意味で、この作品の原作はよく出来ている。こんな手もあったか…と。しかし、これは究極の教育映画だ。
以下、未観の人は読むべからず。
いきなり結末に触れるが、主人公で中学教師の森口悠子(松たか子)は、愛娘を殺した受け持ちクラスの生徒2人への復讐を、それぞれの心のよりどころであり、モンスターの製造者でもある母親を本人たちの手で殺させることで貫徹させる。
主犯で自称「電子工学の天才」の少年Aは最後の最後で、学校に仕掛けたはずの爆弾が最愛の母親の居場所に移されたのを知らず、遠隔操作で自分の手で殺した(と森口から聞かされる)ことを知ってはじめて悶絶する。
これは15R作品だ。主人公が13〜14歳の中学生と教師なのに、15歳以下は観ることができない(DVDが出たらガンガン観るといい)。R指定が逆に宣伝効果があるからと利用されることもあるだろうが、この場合はおそらくバカな映倫の判断だろう。これこそ中学生にいちばんに観せるべきだ。子供たちがどこまでヘラヘラ笑って観ていられるか(最後まで笑って観られそうな気も…)観察するにはいい教材だ。なるほど、そう考えると大人たちはこれを子供たちに観せることで、自分たちの教育やしつけの失敗がバレるのが怖いのかもしれない。これには教育をめぐるすべての社会問題も含まれているから。
単に政治家になりたかっただけの“ヤンキー先生”と呼ばれていた義家某が、「もう死にたい」と相談してくる子供たちに「オマエは一人じゃない、先生(本人)がついてる…」というようなやり方ははたして正しいのかどうかがここでハッキリ語られている。大人たちは、安易に「死にたい」と思ったり、口にする子供たちに実際に死ぬということがどういうことなのか説明してきただろうか。「イジメは絶対に許さない」と言っても、具体的に現代のイジメがどういうものかがわかってないんじゃないのか。教育改革以前にインターネットや携帯電話(メール)がイジメのツールの主流になっていることをなぜもっと問題にしないのか。保護者責任をなぜ声高に追求できないのか。
話は戻って、この作品は教師の森口、少年Bの母親と少年B、少年A、少年Aと対極的な女子生徒5人それぞれの1人称の語りで綴られている。告白というものが客観的事実とは異なり、ときおり御都合主義や自己正当化に陥っていることを、カメラは人物をできるだけ大きく撮り、背景を限りなく排除することで強調されていたように見える。逆に主体性の希薄な森口の後任“自称熱血”教師のウェルテル(岡田将生)の目は、いかに周りが見えていないかが背景を見ればわかりやすい。
事情がわからずKY連発のウェルテルに「最高!」と生徒が盛り上がるシーンは良かったが「THAT'S THE WAY」で踊るまではオレとしては余計だと思った。あれがなければ中島哲也監督のこれまでの作品と完全に切り離して見られたのに“シャープな黒”がちょっと薄まった感じがした。
もっと言えば、松たか子の演技がなんとなく不完全に思えて今ひとつ感情移入できなかった。これは単なる好みの問題かもしれない。意外と難しい台詞なのかもしれない「ドッカーン!」と「なーんてネ!」を聞いたこっちの方がちょっと恥ずかしくなってしまう。ラストの「なーんてネ!」が及ぶ範囲がこの作品の監督が言うところの余白なのであり、観る側がどこまで遡るかで、森口の被害者遺族と教育者のバランス感覚が大きく違ってくる重要なフレーズだと思うのだ。
それでもここ最近の日本映画では最重要作品。残酷ではあるが最高にオススメの教育(子供だけではない)映画だ。
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