「精神」 [★★★]
「精神科診療所の患者を撮る」というタブーに踏み込んだドキュメンタリー、いや「観察映画」ということです。で、「観察映画」というジャンルだそうですが、私の思う「観察」とは、こちらに向かって主張しない昆虫や植物、または観察されていることを知らない対象を客観的に観ることというイメージなのですがどうなのでしょうか。
それはいいとして、監督である想田和弘さんは「精神病患者と健常者の間のカーテンを取り払いたかった」と言います。
予め「撮影します」ということを承諾してくださった患者さんたちが出演しているのですが、患者さんたちにとっては、注目されている、自分を見てくれているということがある意味、心の薬となって比較的安定している状態でカメラに向かって語ります。患者さんたちの中には、ユニークではあっても決して精神病には見えない人もいるわけです。
かつて「金さん・銀さん」という100歳の双子のお婆ちゃんのブームをマスコミが作り出したことがあるのですが、実は銀さんの方はすでにアルツハイマーが発病していたということが後になって公表されました。世間から注目されているときだけ調子が良かったらしいのです。潮が引くようにマスコミが一斉に去った後、金さんは亡くなり(マスコミが原因ではないと思うが)、銀さんの痴呆はより悪化したといいます(これも自然の成りゆきだと思いますが)。とにかく私たち視聴者は二人の調子のいい部分だけを見ていたということです。
統合失調症や躁鬱病とアルツハイマーを同列に語ることはできませんが、この作品を見る限り、出演を承諾した患者さんたちは「状態が比較的安定している」と思えたのでした。
しかし彼等はここで絶対に見せない一面(もしくは多面)があるはずなのです。自殺未遂を繰返す人、生まれて間もない我が子を殺してしまった人が穏やかに映って見えているのですが、その「破裂」のボタンを押すか押さないかの間に「カーテン」があるのではないかと思うのです。それは私と患者さんの間のカーテンではなく、誰もが持つ壊れていない部分と壊れている、または壊れちゃった部分の間のカーテンでもあると思うのです。
出演者の中で、詩人で写真家の菅野さんという人は私たちの周りによくいる(というか私もそうかも?)、やたら“語る(何せ詩人ですから)”タイプです。カメラに向かって自分の中の壊れていない部分をアピールしたり、自身が精神的に壊れた経緯を説明してくれたりします。
そして、その傍らでひたすら横たわり、起き上がってはタバコを吸い、また横になり、一切を語らず、呼吸をするのも面倒くさそうにすら見えてしまう、とても生きていることがしんどそうな男性が出演しています。菅野さんは彼の歩んで来た人生、トップで突き進み、燃え尽きてここへ来るまでを説明するのですが、そういった自分の話にすら興味を示さず、おそらく撮影も承諾したのではなく「もうどうでもいい」ということだったのでしょう。菅野さんとは対照的に彼の壊れてしまった部分だけが映されるわけです。
印象的だったのは、一見すると4人の大学生が喫茶店で話しているかのように見えるシーンですが、ひとりの若者が他の3人に「軽音楽サークルに入ろうかと思っている」ことを真剣に相談しているのです。他の人たちは「勇気あるよなあ」とか「自分には無理」などと、わずかに嫉妬と羨望を込めて意見します。彼等にとっては非常に深刻な問題だったのです。集団の中で、いつか自分が壊れてしまって周りの人たちに遠巻きにされてしまうことが恐怖なんだそうです。自分たちのことをよく解っている分、ある意味まともにも思えるのですが、自分をコントロールできなくなることもよく知っていることがとても苦しいんです。
ハッキリ言って私はこの作品から何も得ることはできませんでした。
監督は「『言いたいこと=メッセージ』も、明確な結論もない。むしろ、映画を単純なメッセージに還元するプロパガンダ的な姿勢から、最も遠いところで作品を作ることを目指した」と言いますが、それを患者さんたちにちゃんと理解してもらっているのだろうか?カメラに語りかける患者さんたち、中には小泉構造改革を批判する患者さんもいましたが、結局は患者さんたちを通してメッセージを発しているのではないのか? でなければ「精神異常者としてのメッセージ」も観察の対象なのでしょうか?
撮影されていようがされていまいが「選挙」に全身全霊で闘う候補者を対象にするのとは話が違います。前作「選挙」はそれこそ「観察映画」と言ってもいいでしょう。でも、精神科の患者さんたちはカメラを思いっきり意識している。多少なりとも心のよりどころにしているわけです。決してカメラ目線でなくても彼ら彼女らはメッセージを発しているのは、映画という媒体がメッセージ性のあるものだということを知っているからなのではないでしょうか。
何も私が監督のことばの揚げ足を取っているわけではありません。「自分の作品にはメッセージ性が無い」などとは言っていないこともわかっています。しかし、監督はとても理屈に長けた現代的な方のようで、あらゆる批判の「逃げ」を作っているように思えてなりません。
「観客が作品を通じて、なるべく『す』の状態で精神科の世界を観察し、あれこれ考えたり疑問を持ったり刺激を受けたりできれば、作者として幸せである。」と言われてもこの作品を観て疑問も刺激も皆無なのです。おそらく多くの人がこれ以上の現実を身近なところで知っていることでしょう。
モザイク、ナレーション、テロップ、音楽を排除することにもさほど意味も感じませんが、それをPRの材料とし「観察映画」という看板を掲げることに「奇をてらっているのではない」というのならそれでいいでしょう。
しかし私は監督が「タブーに踏み込んだ」と言っているほどタブーな世界だとは全然思っていないのです。
はたして、この作品はカーテンを取り払うことが出来たんでしょうか? 私にはカーテンどころかスクリーンという檻を作って、その中にいる患者を無責任に「観察」する作品でしかないように思えます。
「軽音楽サークル入り」の相談を受けた中のひとりの女性と、菅野さんの傍らに横たわっていた男性、他に躁鬱病の辛さを語っていた女性、この3名が映画完成前に亡くなられていることを私たちは最後に知ることとなります。
そういうことはここの診療所において日常的なサイクルなのかどうかはわかりませんが「映画撮影」という患者さんたちにとっての一大イベントが去った後の空しさ・虚しさ、それを想像してしまいます。
そしてもうひとつ、診療所の精神科医・山本医師を患者さんや事務員さんたちが口を揃えて「素晴しい先生」と言いますが、その先生が口べたなのか極度に緊張していたのかは知りませんが、その良さが一切伝わってこなかったのも残念でした。
ということで菅野さんに15点!
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