「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」
レビュー補足Vol. 3
●「エクスペクト・パトローナム」が効力を発揮するための条件
昨日の続き。
そしてついに「エクスペクト・パトローナム」がハリーに教えられる(個人授業)。mobanama さんは「エクスペクト・パトローナム」が効力を発揮するのに、「唱えた個人の幸福な経験、幸福感がどれほど重要なものであるのかがまるで伝わらないように思う」と書かれていますが、ここでも先生はセリフではっきり「幸福な思い出」が重要である、と語っておられます。
この個人授業でハリーは「亡き父母との思い出」によってある程度、呪文の効力を発揮させます。
ハリーにとって父母との思い出は幸福感あふれるものですが、ここでは名状しがたいひっかかりを感じております。そのひっかかりもあって、後日ディメンターの大群に襲われた一度目、呪文は不発に終わってしまう。
さて事件はいったん、ヒッポグリフの屠殺とシリウス・ブラックの捕縛という沈鬱な結末を迎えます。こんな結末では映画は終われない! とばかり、最後に、校長先生の粋なはからいでハリーとハーマイオニーは、「時間を逆行できる魔法」を使い、「過去を違った視点で、客観的に見る」ことを学びます。
面白いのは、ハリーたちは過去に戻りはしますが、過去を変えるわけではない、というところです。過去の自分たちに対し石つぶてを投げたりしますが、それは過去にすでに起こっていたことがらをなぞったに過ぎない。沈鬱な過去も、見方を変えればまったく違う様相を呈し、ヒッポグリフとシリウス・ブラックは逃げのびていたことがわかる。
そして二度目の「エクスペクト・パトローナム」です。なぜ二度目の呪文は効いたのか? ヒッポグリフとシリウス・ブラックの遁走を知って、ハリーの心は、一度目とは異なる「幸福感」に満たされたからでしょうか?
「エクスペクト・パトローナム」が効力を発揮するには、まず「圧倒的に幸福な思い出」が必要です。しかしさらにもうひとつの重要な条件をハーマイオニーは語っています。「エクスペクト・パトローナム」は、「ほんとうに強い魔法使いしか使えない」。
つまり、二度目の呪文を唱える刹那、ハリーは「ほんとうに強い魔法使い」に成長した、というわけです。それは、父親の死を「完全な死」として受け入れたからだ、と私は思いました。
ハリーは、「父親はとっくの昔に死んでおり、自分を救いになどきてくれないのだ」という冷厳な事実を受け入れることによって、「ほんとうに強い魔法使い」となり、その地点から回想することによって、父母との思い出を圧倒的に幸福なものとすることができ、「エクスペクト・パトローナム」が爆発したのであった。……のかもしれない。
●映画が「挿絵集」を脱するのに必要なもの
このときハリーは「悲しい」とも何とも申しませんが、私は、ハリーの心は悲しみに満ちていたであろうと想像しました。その深い悲しみがあるからこそ、父母との思い出を、よりいっそう幸福なものとして思い起こすことができたのだ、と、私は勝手に思いこみ、茫然と感動したのでした。
これは特殊的・個人的・主観的な見方でありますが、助けに来てくれたと思っていた父親が、結局そうでなかったと知ることは悲しいことと思われませんか? 思いませんか。そうですか。
「『悲しみに満ちた』『心の闇』からは『エクスペクト・パトローナム』は効力を発揮しない」と mobanama さんは書かれていますが、私は、ハリーが深い「悲しみに満ちた」「心の闇」を持つからこそ「エクスペクト・パトローナム」が必要なのであり、圧倒的な効力を発揮したのだ、と考えています。闇が深ければ深いほど、光は強烈になる、のであります。
心に闇を持つ主人公が駆使してこそ、魔法は、その魅力を映画に横溢させる。
また、呪文が効力を発揮するには、単純に「圧倒的に幸福な思い出」があればよいのでなく、深い悲しみに敢然と向き合える「強さ」が必要である、と、物事を二つの面からとらえているから、この映画は「挿絵集」を脱している、と私は思うのです。
この映画では、ほぼすべての人物・物事が、二面性を持つものとして描かれております(原作がそうなのでしょうね)。
極悪人と見えたシリウス・ブラック、よい先生と見えたルーピン先生、ネズミ…などなど。「優等生」ハーマイオニーでさえ、先生に反抗し、暴力をふるったりもする。本質が、目に見えたままではないから深み・陰影を増して、映画は「挿絵集」以上のものになる、と私は考えています。
ハリーが 2 度目に呪文を使うクライマックスにおいても、爽快さと同時に悲しみが存在している(と私には思われる)から、映画『アズカバンの囚人』は傑作である、と私は一人ごちたのでした。…ドラコ君だけは、映画版前 2 作に比してもますます絵に描いたような阿呆として描かれていますが、そもそも金持ちの子供なんて、単純なものですから、これは仕方ないですね。
●「トンチ」について
さて「なぜ 1 回目は効かなかったディメンター退治の呪文が 2 回目は効いたのか」、心理面から考察してみましたが、実はそんなことはどうでもよいと思っておりまして、というか、やはり私には、ハーマイオニーが発した疑問に対する、ハリーの簡単明瞭な答の方が、素晴らしい説明になっていた、と思います。この答に私はすぐれた「トンチ」を見ました。
なぜ、これがトンチなのか? 説明するのは「なぜギャグが面白いか?」を説明するのと同じで、説明すればするほど面白みが薄れていくもの、「Don't Think! Feeeeeel!」としか言いようがありません。
なぜ呪文が 2 回目は効いたのか? 「個人の幸福な経験、幸福感が重要」とか、「ほんとうに強い魔法使いしか使えない」とか、映画の登場人物が説明的に語っているにせよ、それらはひとつの解釈にしか過ぎません。仮に原作者がそのように設定していたとしても、それも原作者によるひとつの解釈に過ぎない…というのは、ラジカルな見方かも知れませんが、作品という物は発表された瞬間から、作者の意図を離れて誤解を生み出し続ける物で、より大きな誤解を生む作品の方が面白い、と私なんかは思うわけです。
しかし、ハリーの簡単明瞭な答は、「そら、その通りやな」と誰しも納得せざるを得ない、「事実」を語っているのですね。「このはしをわたるな」「屏風の虎を退治して見よ」という難題に対する一休さんの返答に似ている、と思ったのですけど、これは私が「トンチ至上主義者」で、少々ソース(=映画そのもの)から逸脱した見方をしているのかも知れません。どうでもいいですね。
●『もののけ姫』のシシ神さまそっくりの描写について
これまたどうでもいいと思うのですが最後に、
- 湖のほとりに霊的な「鹿」が現れるという、『もののけ姫』そっくりのシーンは、『もののけ姫』の影響を受けているのではないか?
という私の憶測・邪推に対する批判について、です。
mobanama さんは、「唐突に『鹿』が出ることに違和感とか必然性への疑問とか感じなかったのかな?」と書かれておられますが、これが「パンダ」、あるいは「イボイノシシ」、あるいは「八丈島のキョン」なら、「Why? なぜに一体!!??」と大いに疑問をもったでしょうが、「鹿」でしたのですんなり納得できました。なぜなら関西人にとって「鹿」といえば「奈良」、奈良の「鹿」は「神様の使い」、「鹿」が霊的な存在であることは一般的な認識なのですね。ここで「鹿」が出ることは、関西人にとっては唐突でも何でもないはずです。
それよりも、私にとってはなぜこのシーンが『もののけ姫』にそっくりなのか? ということの方が疑問でして、ついつい、映画『アズカバンの囚人』特撮スタッフが『もののけ姫』を参考にしたに違いないと憶測・邪推したわけですが、それに対して kick さんは、このシーンは「原作そのまんま」とおっしゃっておられます。…つまり kick さんは「原作者がパクった」と言いたいのでしょうか?
原作『アズカバンの囚人』の出版は 2001 年、『もののけ姫』公開は 1997 年(全米公開は 1999 年)ですので、可能性としてはありうることだと思いますが、私はどちらかといえば、(未読ですが)原作の描写は、それほど『もののけ姫』に似ておらず、近頃、日本アニメを参考にしまくっているアメリカ映画の特撮スタッフが『もののけ姫』を参考にした可能性の方があり得ることだ、と思うのです。
ともかく、映画『アズカバンの囚人』を見てやっと、原作を読む意欲が湧いてきましたので、確かめてみたいと思います(いつになるかはわかりませんが)。
●おわりに
mobanama さん、kick さんにツッコミを入れていただいて、あまりの嬉しさに長々と書いてしまいました。これからも、ぜひ鋭いツッコミを入れていただければ望外の幸せです。ぜひ、よろしくお願いいたします。おしまい。