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「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」
レビュー補足Vol. 2

主人公ハリーのキャラクターについて

 昨日の続き。

 まず、ハリーのキャラクターについて、です。ご両人の指摘では、主人公ハリーは映画版前二作において、「素直な優等生ちゃん」ではあり得ず、すでに「トラウマ」を抱え、歪んでいたそうです。

 しかしながら私の主観的・個別的・特殊的な物の見方によれば、ハリーは「優等生的ないい子ちゃん」にしか見ませんでした。つまり、mobanama さん・kick さんには、性格の歪んだトラブルメーカーに見えたとしても、ものすごく性格が歪んでいる私から見れば真っ直ぐないい子ちゃんに見えた、というわけでございます。

 そもそも、私は子供というものを、陰険で陰湿、狡猾で残忍なものと思っております(自分がそうだったものですから)。そういうわけで映画版前二作ハリーは、私にしてみれば、まったく何の歪みもなく、すくすく育っているかしこい少年に見えたのです。

 映画版前二作ハリーはいろいろ校則を破りはしますが、例えば、魔法学校を「バリ封」して校長室の机で……みたいな、無軌道なものとはまったく違うと感じました。

映画『アズカバンの囚人』のハリーは、心の闇を抱えた少年…と見える

 ところが、映画版『アズカバンの囚人』ハリーは、映画版前二作とはまるで異なる「心の闇」を抱えている、と私は見ました。冒頭の、怒りにまかせて魔法を暴力的に、後先考えずに使うシーンで、キャラクターが変わっているゾ、と思いました。

 父母がいないという設定は、mobanama さんがわざわざ指摘されたように、前二作をひきつぐものですが、『アズカバン』では、それがトラウマになっており、気鬱、不安、イライラを引き起こしている=「心の闇」を抱えている、と私は見ました。

 そしてこの「心の闇」は、前二作とは異質なものと見るべきなのではないか? と思うのです。

 なぜなら映画『アズカバンの囚人』は、「心の闇」を抱えた少年が、いかにそれと向き合い、闇の中に光を見出したのか? を描く物語だからなのである。ババーン!

 おっと、断定的に述べてしまいました。もとい、ひょーっとしたらそういう物語なのかも知れません。

「なぜ呪文が 2 回目は効いたのか?」は、映画において、あらかたセリフなどで説明的に説明されており、また物語は、すべて呪文が二度目に効く瞬間に収斂するよう構成されているように見えます。私には、たいへんわかりやすかったのですが、もしかしたら、ハリーの前二作とは様相が異なる「心の闇」が感じられなければ、わかりにくいのかも知れませんね。

映画『アズカバンの囚人』は、闇の中に光を見いだす物語である…かもしれない

 まず、物語の主題は、映画の冒頭で端的・要約的に示されています。

 ハリーは、暗闇の中で光を灯そうとしております。そこにオジサンの邪魔が入る。映画『アズカバンの囚人』は、「深い闇の中で、困難を乗りこえて、強烈な光を獲得するための話」であることが象徴的に表現されている。…のかもしれない。

 また、新学期始業式において、魔法学校・校長先生が「諸君は、暗闇に包まれているが、必ず光を見いだすであろう」みたいな訓辞を垂れます(うろおぼえ。思い返せば、校長先生は最初からすべてを、まるっとお見通しだったのですね)

 そしてその「暗闇」とは、ハリーの心の闇に他ならない。もとい、他ならないかもしれないし、他なるかもしれない。

 ところで、mobanama さんは、「ディメンター(吸魂鬼)やボガート(ものまね妖怪)の性質にしろその撃退法にしろ、まさに『鬱』を描いている」と鋭くわざわざ指摘されていますが、いちいち言い換えなくても、ディメンターは「魂(Soul =生きる元気・精気・活力)を吸い取るもの」、ボガートは、「人の恐怖に化ける」、というように、セリフでわかりやすすぎるくらいに説明されております。

 ではなぜ、ディメンターがハリーばかりに寄りつくのか? それはハリー自身の抱える闇が他の生徒の誰よりも、格段に深くて暗いから、と考えられましょう。もとい、という考え方ができるかも知れません。

今学期は、光を見いだすためのカリキュラムが組まれている…ように見える

 こうしてみると、今学期の魔法学校カリキュラムは、「心の闇に、いかにして光を見いだすか?」をハリーに教えるべく組まれているように思えます。校長先生は、ハリーのためにカリキュラムを組み、あらゆる手だてを打っているのですね。…ように見える。

 例によって、ハリーちゃんえこひいきされてるなあ、と思わないではないですが、ことはハリーに限った話でなく、魔法学校のモットーとして、校外で問題行動を取った生徒に対して手厚く指導援助しているだけなのかも知れませんね。

 閑話休題。心に闇を抱えるとき、人はどうすべきか? 何を学ぶべきか?

 ハリーたちはまず「占い」の講義を受けます。しかし、「占い」は何ら光をもたらすものではなく、むしろ闇を増幅してしまう。優等生ハーマイオニーはそれを鋭く見抜き、「占いの授業なんて時間の無駄!」と言い放ちます。光を見いだすには、まず「占い」のくだらなさを知らねばならない。もとい、知らねばならないのかもしれない。

 次にハリーは「動物とふれあうこと」を学ぶ。ハリーはヒッポグリフと見事に心を通わせ、ひととき気鬱を晴らします。かたくなな心を溶かす、動物の積極的な効用は『クイール』でも見事に描かれましたが、この『アズカバンの囚人』のヒッポグリフも、ハリーの気鬱を一瞬晴らします。

 ここでハリーが、湖に映った自分を見つめるカットが挿入されますが、動物とふれあうとは、結局自分の心を見つめることであり、光を見いだすには、まず、心を溶かし、自分を見つめることから始めなければならない。…のかもしれない。

 続いて、「恐怖」に化けるボガート対策の講義です。ここでは、「恐怖とどう対峙するか」が教えられます。よく「恐怖と笑いは紙一重」と言われますが、見方を転換すれば、恐怖は容易に克服できることが教えられる。

 ボガートを閉じこめているクローゼットの扉は、鏡になっております。生徒たちは恐怖と向き合うとき、まず自分の姿を見つめることから始める。恐怖は、自分の心にこそあることを示しています(かも知れない)。しかしハリーが自身の心に抱える恐怖は、迂闊に見つめると飲み込まれてしまうほど強大なものなのであった…。

 このシーンには、ちょっとした映像のトリックがあって、カメラは鏡の中を映して始まり、鏡の外で講義が行われ、再び鏡の中に戻っていきます。これが何を意味するか? どのような感情を観客に喚起せしめんとしているのか? それは観客個々が勝手におしはかるしかないのですが、これこそ映画における心理描写である、と思います。映画が映画的たる由縁であります。

 mobanama さんは、原作の「心理面で重要なエピソード類」が削られたことに不満を表明されておられますが、映画は映画なりに、いろいろ心理的な描写を重ねておりまして、そのため今回の『アズカバンの囚人』は、映画版前二作と比べて随分と魅力的な映画になっていたと思います。

 まだまだ長くなりそうなので続きは後日

BABA Original: 2004-Oct-04