スパイダーマン2
/Vol. 1
運命さえも敵なのか。偽ることが、愛なのか。正義だけが、道なのか。ババババーン! 1 作目は CG スパイダーマンが、CG ニューヨークをぴょんぴょん飛び回る CG アクションに大いに脱力、ただただウィリアム・デフォーの二重人格演技に大爆笑するのみでした。今回は、なんと史上最高 220 億円の制作費とのことで、こりゃますますつまらないはず! とワクワクで鑑賞に臨んだところ、とても良いお話で感動してしまったのでした。
前作のテーマは「大いなる力を持つ者は、大いなる責任を負う」。……それは、なぜアメリカ帝国が、わざわざ「イラクの民主化」のような、大いなるお世話を焼きたがるのか? という素朴な疑問に対する言い訳で、アメリカは圧倒的な軍事力を持つがゆえに、全世界の秩序を守らねばならないという、“ネオコン”(Neocon = Neoconservatism)思想と対応しておりました。
続編では、そのネオコン思想がコテンパンに批判されるのであった。って、ネオコンがどういうものか、今ひとつよくわかっていないので以下、適当です。
さてさて、スパイダーマン=ピーター・パーカー(トビー・マクガイア)は、誰に頼まれたわけでもないのに、一人自警団としてニューヨークの正義を守っておりましたが、続編ではそういう孤独な「正義の味方」業に疲れ切っております。私生活はボロボロ、バイト、授業、芝居見物に遅刻しまくりです。また、マスコミには記事を捏造(でつぞう)され、ボロカスに叩かれる始末。
これすなわちネオコン批判で、ネオコンの場合も、頼まれもしないのによその国の世話を焼きたがり、ではアメリカ国内はどうなのか? 失業率は高いし、赤字は莫大、教育もボロボロ、片思いの彼女(誰?)にも嫌われる始末ではないのか? そしてリベラルマスコミは見当はずれの批判をくり広げる。
「大いなる力を持つ者は、大いなる責任を負う」の、「大いなる責任」とは、「正義を守る」ということでございましょうが、その論理の破綻が示されるのであった。
前作で示されたこのテーゼはそもそも、新しいように見えて、実は古典的なヒーローの論理と同じなのであります。例えば日本のヒーロー『黄金バット』は、「正義は必ず勝つ!!」と申しました。これは言い換えると、「勝った者が、正義」と同じ、「勝った者」とは「力を持っていた者」ということですから、「大いなる力を持つ者は、大いなる責任を負う」とは、結局のところ「勝った者が、正義」と言っているにほぼ等しいと、私には思われます。
ってよくわかりませんが、「勝った者が、正義」とは国際政治のリアリズムをつらぬく法則でございましょうが、正義の本質は、違うところにあるのではないでしょうか? そして『スパイダーマン 2』はそのことを鮮やかに示すのであった。
長くなりそうなので、続く。歳を取ったためでしょうか、最近、話がくどくなっててすいません。