いつも楽しく読ませてもらってます。呑如来です。オパールのテキストで「柄谷行人はユーモアがあって面白いが浅田彰は退屈だ」というくだりに共感したのでそのことについて書いてみました。HP は http://homepage2.nifty.com/jituzon/ です。
柄谷行人と批評の現在
現在の日本における思想・批評を語る上で外すことのできない論者と言えば、筆頭が柄谷行人、蓮實重彦であり、その下に浅田彰、三浦雅士その他諸々…という構図があると言ってよい。そして、両巨頭の影響をもろに受けた者の批評がどうしようもなくつまらないものであるのに対し、エピゴーネンからの脱出を図っている東浩紀は最近の若頭と言える。
『皆殺し文芸批評』(太田出版)も柄谷と東の発言以外「自分の顔を鏡で見てから言え」と怒鳴りたくなるものであったし、文芸誌の批評もただの内部抗争や内輪もめにしか見えないのは、それら若手評論家? が自らの必然として文学と向き合っているのではなく、単なる余興として辛口批評でもしてみましたというお遊び感が漂っているからだろう。無論遊びは必要だが、彼らの態度は結局、両巨頭の提言した「遊戯」という観念を下地に責任逃れをしているに過ぎず、教祖を慕う信者のごとく、独立性がない。言わばパラサイトクリティックなのである。
それは「偏差値が高いから自分は偉い」と勘違いしている東大卒官僚と同様えげつない。とはいえ彼らが書く批評をそのまま鵜呑みにする読者(そんな人いないか)もまたえげつないが。
ただ「偽者がいるから本物が際立つ」という良い面もあって、現代文芸批評の悲惨さを目の当たりにするにつけ、柄谷行人の特異性を称えたくなるのもまた事実だ。蓮實重彦も『表層批評宣言』、『文学批判序説』、『小説から遠く離れて』等のブルジョア的美意識と小説愛に基づく著作や、村上春樹を物語作者としてバッサと切り捨てる所業には拍手喝采なのであるが、やはり私は、東大総長は似合いそうにない、泥臭くてロックテイストすら感じる柄谷行人こそ生まれついての批評家と断言したい。
柄谷行人はいつも怒っている。批評する相手とがっぷり四つに組んでいる。作品に対する個人的な思い入れが批評の強度を増し、批評自体を文学に高めているのだが、それは安吾のそれに対してもマルクスのそれに対しても吉本隆明のそれに対しても変わることがない。とはいえ柄谷において漱石は別格である。漱石批評は数あれど、彼ほど漱石の小説を批評する必然性を感じる者はないからである。
蓮實重彦や浅田彰が高みの見物を決め込み、書くことで自己陶酔を深めてゆくのに比べ、柄谷は書きながら自己散乱、自我分裂を深めていく自虐的な危うさがある。そしてそのような危うさこそ文学の本質を表しているといっても過言ではない。
深みに嵌るのを厭わない潔さ、怒りを創作に昇華する上品さ。NAM の活動にしても柄谷行人から目を離すことは不可能なのである。
呑如来:web site >> 呑如来的日常 Original: 2001-Apr-29;
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