オールド・ボーイ
京極弥生座に『オールド・ボーイ』を観に行く。ちなみに今日はメンズデーで、私は1000円で鑑賞した。
さて、これは原作が日本のマンガの韓国映画である。とにかく勢ひに満ちた良作で、随所に工夫を凝らしながら、多少強引なストーリーを一気に最後まで見せてしまう。感触としては、私の乏しい映画体験から言ふと、三池崇史監督の『殺し屋1』に近いか。どちらも日本のマンガが原作だし、舌を切るシーンも共通してゐる(これは原作にあるシーンなのか? もしなければ、映画『殺し屋1』へのオマージュになると思ふのだが。)。勢ひに乗つた荒ッぽさ、そしてそれが成功してゐるところも似てゐると思ふ。そして、マンガッぽい「微妙さ」も、また。実際、マツヤマさんの「マンガだよ、これ。いや、原作はマンガなんだらうけど」といふ感想が、私的にもシックリくるのであつた。その理由を考へてみる。
最初に断つておくと、この「マンガッぽい微妙さ」は、多少マイナスのニュアンスも含んでゐるのだが、マンガにおいてはさうではない。マンガがマンガッぽくてもあまり気にならないのだが、それが他のメディアに移された時に、チョイと気になるのだ。それが何故なのか、といふのは、手に余るからここでは考へない。なにをもつて「マンガッぽい」と感じるのか、といふのを考へてみる。と、それは、「奇矯なストーリーを支へる安易さ」ではないか、と思はれるのだ。
通常ではあり得ないやうな場面が連続し、普通はあり得ないやうなストーリーが展開する。それに対して我々受け手は、どうなつてゐるんだ? なぜこんな事が起こる? などと驚きながら疑問に思ふ訳だけれど、それに対して、普通では考へられないやうなよく出来た説明が与へられると、我々は「うん」と唸つて感心・感動する。これぞ物語の愉悦だ、などと思つたりする。が、逆にこの説明があまりに安易だと、白けてしまうのだ。たとへば、主人公が超人的な能力の持ち主で何でも! できる、とか。
むろんかういつた事は、マンガに限らず小説でも映画でも現実の事件(に対する説明)でもある訳だが、さう云つたものに突き当たつた時、我々は「マンガ的だ」と思つたりするのではないだらうか。なぜかマンガだと、多少は許されたりするやうな気がするのは、私がマンガはやはり基本的に子供向け、といふ偏見を持つてゐるからかもしれないが、先程も言つたやうにそれは今日は置いておいて、この映画『オールド・ボーイ』にあるその「マンガッぽさ」=「奇矯なストーリーを支へる安易さ」を指摘すると、それはまず第一に主要な登場人物のひとりが法外な金持ちであることだ。金の力でどんな無理なこともある程度は出来る、といふ設定になつてゐる。これは安易。そして第二に、「催眠術」が使はれてゐることだ。催眠術で人の記憶を消したり、自由に操つたりなんて出来ないッて。これも安易だ。
と、色々書いてきたが、もちろんこれはこの映画にケチをつけやうといふ意図ではなく、ネタバレ厳禁の映画なので、かうでもしないと感想の書きやうがないからである。実際の映画は、この手の多少の疵を吹き飛ばす勢ひに満ちてゐる。是非、みなさんの目で確かめて下さい。
これで私の今年に観た映画(新作・劇場にて鑑賞)は19本になつた。…と思つたら実は先日のは数へ間違ひで、これで晴れて20本になつたのである! ヤッター!
これで一応は規定量を満たした…訳ではないのかな?
小川顕太郎 Original: 2004-Dec-1;