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サ ラ リ ー マ ン テ ク ノ カ ッ ト 8
テ ク ノ の 論 理
人間関係(コネ)でつながる世の中ではなく技術でつながる世の中を、といったのは確か小林信彦であり、この言葉を浅羽通明を経由して受け取った小林よしのりは「ゴーマニズム宣言」において理想的な世の中のありかたとしてこれを強調しているが、果たしてこれは今後なお生きつづける値うちのある言葉であろうか。
この言葉は酒その他でつながった日本的「世間」、個を抑圧する全体主義的な「世間」に対する嫌悪からまず発せられたものであろうし、ジメジメした人情的しがらみを嫌う事では人後に落ちないつもりの私も、その点においては大賛成なのだが、どうも“技術でつながる世の中”というのが想像できない。まず“技術”とは何か。ここでいわれる“技術”とは、コネと対立して使われているところからみて、“実力”という程の意味だと思われる。実力のない者がコネによってのしあがり大きい顔をしたり、実力はあるがコネのない者が不遇をかこっていたりする事に対する批判という意味あいがこの言葉からは感じられるのだが、ひるがえって考えてみるにコネを使ってうまくやるのも実力のうちといえまいか。別に私は斜にかまえてこんな事を言っているのではなく、私の生きているサラリーマンライフというものが正にコネ、しがらみと不可分の世界だからこういう疑問を呈したくなるのだ。誤解して欲しくないのだが、私は例えば上司に卑屈に取り入った者が出世できるとかそういう類の事をいっているのではない。そういう事もあるであろうが、入社 3 年目の私の目にはまだそんな現象は入ってこないし、私のいっているのはもっと違う次元の話である。
私の勤めているのは食品メーカーなのだが、“技術でつながる世の中”の論理からいうと食品メーカーはコネを使って商品を売るのではなく、いかにいい食品を安く作るかという事によって勝負するべきであり、そのことによって世の中にはいい食品が安くで多くもたらせる事になって、これこそが健全な世界だという事になるのであろう。しかし私の仕事は営業であり、メーカーに勤めているとはいえ製品を作っているのではなく、とにかく与えられた商品を売ってくるのが仕事なのである。その時によくいわれるのが“商品の力に頼らず、商談の力で売ってこい”という事で、この言葉には極端にいえばいい商品が売れるのは当たり前で、良くない商品を売ってこそ営業の実力だ、とでもいうニュアンスが感じられる。よって営業の仕事における“コネづくり”というのは非常に大きな割合をしめ、商品の力に頼らず自らのつくりあげたコネによって商品を売るところに営業マンの実力と誇りがあるのである。こういう事情であればコネ vs 技術(実力)という図式にも首をかしげざるを得ないのではないか。
小林よしのりのこの度の「SPA !」降板には、実は小林の掲げる“コネでつながる世の中ではなく技術でつながる世の中を”という思想も深くからんでいるのではないだろうか。小林は、わしのおかげで「SPA !」は売れていた、といった内容のことをあちこちに書いているが、そこには営業の視点がすっぽりぬけおちている。というか小林は“営業”という考えかた自体を嫌悪するのであろうが、世のサラリーマンというものは大抵それでメシを食っているのであり、小林の好む“プロ”という事をいうなら、営業力のあるものぼどプロのサラリーマンとして認められているのである。
営業なんてしなくても実力のあるものはいつか認められるという説もあり、これはこれで真実を含んでいると思われるが、死後ずいぶんたってから認められたなんて話はザラにあり、生きているうちに認められてそれでメシを食うためには営業があながち無駄とは思われない。
そうではない、と反論する人もいるであろう。営業など必要なくいいものが認められるのが“技術でつながる世の中”であり、今はそういう理想の世でないから営業が必要なのであって、理想の世になれば営業など必要ない、と。しかしそれでも私は“技術でつながる世の中”というものが想像できない。“いいものが認められる”の“いい”という基準が相対的なかぎり営業という思想はなくならないであろうし、もし基準が絶対的ならそこはファシズムの世だろうと思うからだ。
ここで大急ぎで述べさせてもらうと、わたしはもちろんコネでつながる世の中を肯定しているわけでも、営業という活動に誇りを持っているわけでもない。実際のところ私は日々たずさわっている営業活動が嫌でたまらなく、元来人と喋るのが苦手な私は 3 年目になるというのに今だ口をきけない得意先もいくらかあるし、自分のやっている仕事に対していっこう面白みを感じず、虚しい感情を抱くばかりである。先日、課長から「小川も 1 ランク上の仕事をするためにもそろそろ接待を覚えなくてはならないな」と言われ、気分は暗澹たるさまだ。
内橋克人が KK 日本を批判し、会社主義=全体主義に抗する個人の姿を描こうとした時にまず技術者をとりあげ「匠の時代」を書いたように、技術者の持つ技術というのは個人主義と結びつけて考えやすい。コネに頼らず、自分の腕一本で世間に伍していくというイメージだ。だからコネ vs 技術という図式を考えたくなるのもわかるのだが、ここでの技術とは技術者の技術であって、そういう技術をもたない人々が大半の世の中であってはこの図式は使えない。ではどうであればよいのか。私はオルタナティブな概念としての技術、生産とは切り離された概念としての技術を仮説として想定し、これによってコネでつながった世の中=しがらみ全体主義の世の中を越えんとしているわけだが、まあ大方の予想どおりこれを“技術=テクノ”と呼ぼうと考えているわけだ。個人としての存在の根拠を社会的役割と切り離した所に設定せんとするこのような発想は、オタク的だと罵倒する声も飛ぶだろう。しかし自らを“ダメの人”と韜晦しながらも心密かに矜持情熱憎悪を滾らせている(ホンマか?)私のような人間はこういう概念を模索せざるを得ないのだ。
冒頭に掲げた言葉を若干訂正し、以って結語としよう。人間関係(コネ)でつながる世の中でなく、テクノでつながる世の中を。
(初出:ショートカット 58 号 1996 年 1 月 15 日発行)
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解 説
個人の技術=実力、それによってもたらされる「誇り」。こういった語り口は、このサラテクが書かれた時よりも、むしろ現在の方が、「国の誇り」といった形にまで拡大されて、流通しているのではないだろうか。私はもともとこういった語り口には深い疑いを持っていたが、現在ではその疑いは確信にまで変わっている。つまりこういった語り口には、自らの持つ弱さの隠蔽、劣等感の裏返し、という側面があるのだ。
我々人間は生きていくうえで他人との交渉は避けられない。そういった煩わしい人間関係のしがらみをやり繰りしつつ、様々な不条理に抗し戯れつつ、日々を過ごしていくのが生きるという事だが、そういった事に耐えられないにもかかわらずその事を認められない、あるいは生きていく過程で見せざるを得ない様々な醜態をさらしたくない、常に格好良く虚勢をはっていたい、といった人間が、「実力」「誇り」と口にするのだ。前回の話にからめていえば、自分の勝つことのできるルールを一方的に定めた土俵を自分の周りに勝手に仮定し、その上で虚勢を張ったり、世間がその土俵上にない事を攻撃したりするのだ。
何度でも付け加えさせて貰うが、私はコネでつながった世間=現状を肯定しているわけではない。ましてや、自分勝手な意地をはっていないで世間と妥協する事を覚えなければならない、などと言うことがいいたいのではない。私が問題にしているのは闘い方なのだ。「実力」「誇り」を掲げた闘いは結局の所ルサンチマンに基づいている場合が多い。ニーチェも言っているように、ルサンチマンに基づいた闘いは世の中を腐らすのだ。
問題を整理しよう。「大きな物語」が解体され、様々な価値観が乱立している現在では、アプリオリに技術=実力といったものはたてられない。そういった現状を無視し、たまたま自分の持っている技術=実力を価値あるものとして世間に突き出すのは端的に間違いである。この間違いを覆い隠すために、「誇り」といった語り口が持ち出されるのだ。(ここでひとつ注意を加えるなら、前回のサラテクでは社会ダーウィニズムを「大きな物語」のように扱っていたが、もちろん正確には違う。ただそれは「比較的大きな物語」であり、私がサラリーマンとして生きていくうえで不可避的に出会ってしまうものだ、という意味あいだったのである。)
我々にとって必要なのは、手前勝手な技術=実力ではなく、様々な価値観の間を自由に行き来できる技術であろう。それを私はとりあえず「テクノ」と呼んでみたのだ。
現在の我々は各々が自分達の小さな世界に引き籠り生きている。それで一生いければ問題ないともいえるだろう。昔の村落のように、一生外の世界を知らずに生きていくことも有り得るからだ。しかし、現在の我々ではそれは難しいのではないか。我々は不可避的に社会ダーウィニズムのような「比較的大きな物語」群に出会い、その物語の不完全さゆえに苦しむ事になる。この「比較的大きな物語」群を、「政治」といいかえてもいいだろう。そのときに我々はいかにして闘い得るのか。まずは異なった価値観の人々との共闘が必要だと思われる。なぜなら統治者の常套手段は「分割して統治せよ」だからだ。
自分達の事に干渉してほしくない、こちらからは何も言わないかわりにそちらも言ってくれるな、別に楽しくやってるからイイじゃないか、というのが今の若い人達の基本姿勢だろう。私もその気持ちが分からないわけではない。しかし、そうこういっているうちに、「楽しくやってるからイイ」とはいえなくなるかもしれないのだ。最近の各個人の自閉化にともなって政治が恐ろしく保守化していく様があまりにドンピシャリで、そうそう笑ってもいられないかんじだ。そろそろ真剣に闘いの準備をしなければならないのではないだろうか。
(小川顕太郎)