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サラテク 1
解説

Salaryman technocut

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サ ラ リ ー マ ン テ ク ノ カ ッ ト 1

「一ト仕事終えて一服している人がよくそう
 思うように、テクノを聴こうと私は思った」

 間歇的に吹き上げる鬱々たる心情を胸中に抱えて日々を過ごすサラリーマンライフ。昔、紀田順一郎は陶淵明の「田園の居に帰る」の中の一説“少きより俗に通うのしらべなく、性 もと邱山を愛せしに、誤って塵網の中に落ち、一たび去りてより十三年”と唱えながら朝の通勤満員電車を耐えたという話を想起しながら、頭の中で“there is a place a place in hell reserved for me and my friends”とか“ふるえているのは寒さのせいじゃないのさ”などと叫び散らして、満員電車にゆられ、営業車を運転し、得意先のバイヤーの部屋の前で逡巡し、会議中に居眠りをしながら過ぎゆく明け暮れ。無論、仕事の内容には全く興味をそそられず、かといっていい加減に仕事をあしらうには心が弱すぎて、あぁ俺ももっと不良であればよかったサラリーマンなんて不良でなければつとまらんしかしそもそも不良がリーマンになんてなるかしらん、などと考える事がすでに言い訳になるやらずもがなのやりとりが頭の中をグルグルまわり、まわるといえば“恋はまわる、まわる回転木馬”とオックス・クライのフレーズがすぐに浮かんできたりしてもうキチンと考える事もできない有り様。これは月曜日から金曜日までばっちり働きながら得たお金をレコードや本や映画やコンサートにつぎこんで、ボンヤリしている時間など一日のうちのほんの数分もない故で、これではまるでよく働きよく遊ぶ典型的なバブル時代のサラリーマンでこんな人間にだけはなりたくなかった。

 仕事から逃げるためにサブカルチャーに頼り、その事によって生への活力を得てまた朝の通勤電車にのりこむというのは唾棄すべき二元論であって、この悪循環を断固断ち切るべきだとは思うものの、おもいきって死ぬことも生きることもできず、ただひたすら流されて最終的に“資本主義の滝壺”にでも落っこって死ぬなり生きるなりできればいいや、と情けない受動的な性格をさらけだしているもんだから関西大震災が起こった時は「やった! これで生活が変わるかも」などと甘々の考えを露呈してみたりもした。ガロ誌上で川崎ゆきおが“地震が起こった瞬間「やった、今日は会社休みや」と叫べる人は震災よりももっと不幸な日常の中で暮らしている人だろう”と書いているのを読んで自虐的な満足にふけったりして、もう救いの光明はどこにもみあたらない様子。

 考えてみれば私は小さい頃よりポップに生きることを理想としてきた様に思う。幼少のおりから友だちが少なく、高校時代はほとんど学校に行かなくなったほどなのに、マイナー嫌いで、大学に入ってからはサブカルチャー系のサークルの勧誘をすべて撥ねつけ、趣味のあいそうな友だちを一切作らず、学生結婚までして、食品会社というお固いところに就職してしまった。持っているレコードも数えてみればその大半がノイズ、インダストリアル、ジャンク系なのに意識のうえではポップス礼讃で前衛的、実験的な音楽なんて糞だと思い続けてきた。私が思うにポップに生きるとは世間に身をさらして生きること、常識と軽やかに戯れて生きることだ。ところが会社生活に突入して初めて自分が如何に保護された、隠微な場所でヌクヌク生きてきたかという事を思い知らされた形で、まったくポップどころの話ではない。言いたい事は常に胸もとで止まってこの 2 年間ひと事も発することあたわず、圧倒的な徒労感で全身ダルく情緒不安定になって妻にまで迷惑をかけるしまつ。事態ここに到って“ポップに生きる”ということについて歴史的概念としてのポッピズムとテクノという概念を導入して根底から考えなおしてみることにした。

 果たしてサラリーマンはテクノを聴くことができるのか。

(初出:ショートカット 46 号 1995 年 7 月 15 日発行)


解 説

 連載1回目という事もあってか、力が入っておりなんかおかしい。

 ショートカットは常時原稿を募集していたのだが、なかなかハードルが高いらしく(?)、編集長の桜井さんもレビューなどで容赦なく批評しけなす人だったので、いざ原稿を送ってみたものの載るものやらどうやらまったく分からず、次号が届くまでドキドキとしながら過ごし、目次に自分の名前をみつけた時は非常に嬉しかったのを覚えている。

 これは阪神大震災があった年に書かれており、文中に「関西大震災」とあるのがそれである。実をいえば、私のほんとのショートカットデビューは阪神大震災の報告であり、奇しくも私の最も古い友人である可能涼介も、「テアトロ」に地震報告でデビューしている。私達二人は今でもよく「あの地震で何かが変わった」と与太を飛ばすことがある。「神の戸が開いた」とか。

 この原稿には当時の私が淫していたものからの引用が多々あるが、おわかりだろうか。ちなみに最初の「」内の文章は、三島由紀夫の「金閣寺」の高名なラストシーンからのもじり引用である。その頃の私にとって一体何が「金閣寺」だったのか。それがこの連載の隠れたもうひとつのテーマでもあった。

小川顕太郎


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