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Magazine Review 1999・9月05日(SUN.)

インパクション 115号

 普段はインパクションなど読まない私だが、今号の特集では私の関心事である「住民基本台帳法」のことが扱われていたので、手にとってみた。すると、新聞やテレビをみない私にも伝わってくる最近の不穏な空気の何たるかが要領よくまとめてあり、色々考えさせられたのでここに考えを述べることにした。

「住民基本台帳法」には関心を払い、この実質的な国民総背番号制には反対してきた私も、実をいえば「国旗・国歌法案」や「ガイドライン法案」にはピンとこないものを感じていたのだ。なぜなら、君が代や日の丸が法制化されたり日本の軍事体制が整ったからといって、それが直ちに軍国化・ファシズム化に結び付くとは思えないからである。いうまでもないが、国旗や国歌を持ち、立派な軍隊を持っている国がただちにファッショの国ではない。しかし実は問題はこれだけのことではなく、このたびのオブチ 145 国会で次々と成立した全ての法案が結び付いたところに現われるのはなにかという事だったのだ。国民総背番号制や盗聴法など、国による人民の管理体制がガチガチの所で「国旗・国歌法案」や「ガイドライン法案」、「地方分権一括法」などが成立すればどうなるか(成立しちゃったんだけれど)。そこには確かにファシズム国家の姿がたち現われてくるのである。もう少し詳しく述べよう。

 こういうとインパクションなど激怒するだろうが、私は日本はまともな軍隊を持ってもいいし、核兵器さえ持っていいと思う。私に言わせれば、「ガイドライン法案」などでアメリカから理不尽な戦争協力を押し付けられるのも、日本にまともな軍隊・核兵器がないからである。平和憲法うんぬんと言ったって、日本は戦後一貫してアメリカの軍事に莫大なお金をつぎこむことによってアメリカの軍事政策の一翼を担ってきたのは間違いのない事実だ。自分でまともに闘う力のない日本は、所詮アメリカの軍事の下で生きていくしかないのである。故にアメリカの理不尽な要求をはね除けるためには、まともな軍隊が必要だろうし、そのために有用とあらば国旗でも国歌でも法制化すればよいと思う。ただし、私がいわゆる「右翼」の連中と違うのは、右翼の人達はまず「国(=天皇)ありき」だが、私はあくまで「人間(=個人)ありき」だという点だ。

 我々人間はバラバラに好き勝手に生きていくことは出来ない。だから必要悪としての国家(のようなもの)の存在は認めるし、それを維持するための多少の犠牲は仕方ないであろう。が、これが逆転して国のために個人があるようになれば、それは本末転倒だし、完全に間違っている。むろんこの両者の線引きが難しく揉めるところだろう。我々はどこまで犠牲を我慢すべきで、どこからは断固反対すべきなのか。私の考えを述べる。

 個人が必要以上に犠牲になるのは、個人を守るための機関=制度にすぎない国が実体化するときである。だから天皇制のようなものはないほうがよいし、あっても現在のような揶揄が一切許されないようなタブーの存在であってはならないと思う。天皇は象徴に過ぎなく、いささかも崇高なものではない。同様に国旗が法制化されたとしても、それへの最敬礼など許されるものではない。国旗とは我々が便宜上使う記号以上のものではないし、あってはならない。さらに国が国民を管理しやすいように設けられる様々な国民総背番号制法案、「住民基本台帳法」や「盗聴法」などは即刻廃止すべきである。権力者側の言い分としてよく、秩序が保たれない、個人のわがままを許すと国が崩壊する、などというのがあるが、国など具体的な人々を守るためなら潰れたって一向に構わないのだ。国破れて山河あり。現在ある国が潰れても人間は生きていける。また新たな国を作るだけだ。

 というわけで、とりあえず今号のインパクションに「住民基本台帳法」について書いている佐藤文明さんの WEB サイトにリンクを張ることにした。もしあなたがカフェで一杯のコーヒーを楽しむ自由を愛するなら、是非のぞいてみてほしい。出来ればインパクションの今月号も。冗談みたいだが、そんなささやかな楽しみも許されない日が来るかもしれないのだ。コーヒーを楽しむ自由を我らに!

オガケン Original: 1999-Sep-05;

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