梟の城
原作モノと申すモノは一般的には原作から自由に離れて発想を膨らませた方がおもしろい映画ができあがると信じられている。実際大半はそうなんだけど、ホントに良い原作モノは吃驚するほど原作に忠実だったりするんだぜ。原作で作家がアレコレ試行錯誤の末、一冊の本を仕上げたところから発展させて、映画に移し替える作業をした場合に原作も良いけど映画ももっとよい、という事になる。
と、いうのも黒澤明の『赤ひげ』や、スタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』などの原作を読んだとき、映画化にあたっての創作部分が少ないことに驚く。もちろんこれらは希有な例であり、こういうことが出来るのは監督なり脚本家なりが原作者の上を行く、「おぬし、できるな」という場合だけなんだけど。
こういう書き出しをしちゃうといかにもボクが『梟の城』をつまんなく見たんだろうな、と察しのよい方は思われるでしょうが、その通りです。
実は映画を見た後、直ちに司馬遼太郎の『梟の城』を読み出して、現在も読み進みつつあるのだが、原作のおもしろさをよくもまあ、こうポロポロとこぼしたものだなあ、と感心することしきり。
その原作のおもしろさとは何か、というと「忍者」というものの精神の特質だ。映画化にあたって「忍者」を超人として描かない、オリンピック選手並の体力の持ち主と解釈し、主にその情報収集力が「忍者」を「忍者」たらしめている特質として描いたらしいが、我々の見たい忍者とはそんなものではなく、原作に描かれているような、名を上げることなどは望まぬ合理主義者で、目的のためには手段を選ばぬクールな者たちでなければならぬ。忍者はやはり、闇に生き闇に消えていく者でなければならぬ。この映画に出てくる忍者は、忍者ぢゃない! と私は言いたい。
主人公の中井喜一はやたらとナルシスティックで、セリフが芝居がかり自己顕示欲が強すぎる。おまけに家族を惨殺されれば泣き叫ぶという体たらくだ。こんなヤツが忍者と呼べるのか? おい。
ただ一箇所、竹藪の中に潜む竹ノ上人という忍者? が爆笑モノであったが、普通に、昔風であっても忍者を現代の映画技術で描いておけば、最近とんと時代劇にご無沙汰の我々にとってはそれなりにおもしろい映画になるのだ。才能のないヤツは、司馬遼太郎の解釈した「忍者」像に異議を唱えるなんてことはしない方がよろしい。
『写楽』に引き続き、時代劇へのコンピュータグラフィックスの導入ということで、聚楽第などの建築物や当時の京都などの風景を再現するのは良いのだが、あまりにも CG っぽくないか? それに CG に頼りすぎるとダメっちゅうのは我々が『スターウォーズ エピソード 1』で引き出した教訓だ。やっぱり、CG も使うが生身の人間も四ヶ月特訓する『マトリックス』でなきゃあ。とんぼ返りで吹き替えを使っているようぢゃあ、我々はもう満足しないのである。って最初から期待してねえよ!
BABA Original: 1999-Nov-06;