いま、会いにゆきます
雨の季節に訪れた、6週間のせつない奇蹟。その愛は優しい雨のように心に降ってくる。ババーン! 市川拓司のベストセラー小説(私は未読)を、数々のヒットテレヴィドラマを手がけてこられた土井裕泰監督・岡田惠和脚本で映画化。
色々ひっかかりは感じながら、これはなかなか素晴らしい作品ではないかーー!(皮肉なし)と一人ごちましたので、ぜひぜひ先入観、事前の予備知識なしでのご鑑賞をオススメします。
以下、ネタバレご注意。
タックン(仲村獅童)は一年前に妻・ミオさん(竹内結子)に先立たれたシングルファーザー。何やら持病を持っていて、年端もゆかぬ息子ユウジくんに気づかわれながら地味に暮らしております。
父子は「雨の季節」を一日千秋の思いで待ちこがれているのだった。なぜなら死んだミオさん、「雨の季節に帰ってくる」と言いのこしたから…。ゾゾー! で、実際、ミオさんは梅雨入りした雨の日にいっさいの記憶を無くして姿を現す…という、とんでもないお話。
死んだはずの人間が生き返るとは、映画『ゾンビ』を筆頭に、W・W・ジェイコブズ某名作短編小説、スティーヴン・キング某名作小説などホラーにうってつけのネタですが、きわめて非科学的・反合理主義的な設定はロマンチックなラヴストーリーにもピッタリ、最近こういうのが増えておりますね。
死者のよみがえりネタといえば、普通は宗教的な味付けがされたり、怪談あるいはファンタジー風味がつけられますが、この『いま、会いにゆきます』は、「死者のよみがえり」をさも当たり前の普通のできごとのように描き、死者がリアルに日常生活を始めてしまうのが凄い! と思いました。
小学生低学年ユウジくんは仕方ないとして、いい大人のタックンがあまり驚かないのはどうしたことでしょう。いかにロマンチックをもってよしとするラヴロマンスの主人公でも、も少し科学に頓着するべきではないか? それともタックンは高校時代にクラブ活動に打ち込みすぎて、それほどにアホなのか? あるいはこの作品の舞台=諏訪は、ソラリスの海に浮かんでいるのか??
と、ものすごい違和感をおぼえる設定にもかかわらず丁寧に夫婦のなれそめが語られ、記憶をなくしたミオさんがタックンにひかれ、ユウジくんをかわいがるステップが丹念に描かれてだんだんその違和感はどうでもよくなってきます。
たとえばタックンが語る二人のなれそめ、駅のホームで「寒いねー」とミオさんがタックンのコートのポッケに手を入れるシーン。あるいは、ミオさんが市川実日子に、「タックンが他の人を好きになるなんて耐えられない!」とボロボロ涙を流して訴えるシーン。あるいは、ミオさん視点で二人のなれそめが語られ直され、そして『いま、会いにゆきます』! とタイトルの意味が明らかになるラスト、私は茫然自失、涙を流しながら「私の合理精神はロマンチックに敗北した!」と一人ごちたのでした。
『いま、会いにゆきます』とは、「今、愛に生きます」なのですね、やはり映画は頭でなく、感情(ハート)で見るものなんだぜ、と、こそばいことも書けてしまう勢いです。
なんといっても仲村獅童+竹内結子、さらにユウジくん=武井証くん(『丹下左膳 百万両の壺』でも好演)の演技のアンサンブルが素晴らしく、さらに二人の高校生時代を演じる浅利陽介+大塚ちひろも良い感じ、大塚ちひろの方が大柄な印象なのはいかにも「高校生の恋愛」っぽいリアルさがあります。
ほぼラスト、ちょっとしたどんでん返しがあって、記憶喪失ミオさんは「死霊」でなく「生き霊」だったことが明かされます。どちらにしても非科学的な真相なんですが、それにしてもよみがえったミオさんを、もうちょっと幽霊っぽく描くとか、全体に溝口健二『雨月物語』風に幽玄な雰囲気にしておれば、死者のよみがえり(ではないですが)に違和感が残らずに済んだかもしれません。あるいは、消えていくミオさんの身体が光の粒を発し、空からミオさんを迎えに来たかのように一条の光が差し…みたいな陳腐なファンタジー風にとか。
しかしながら、ゴリゴリっと違和感を残したのが土井裕泰監督・岡田惠和脚本の戦略だとしたら、なかなか凄い。単純に「よかった!」「泣けた!」「猛烈に感動した!」と簡単に消費するわけにはいかない、大きなひっかかりが残り、むしろそれはこの作品の美徳なのかもしれません。よくわかりません。と一人ごちたのでした。
やっぱり釈然としないところが残りながらも、カップルの方なら盛り上がること必至、バチグンのオススメです。
☆☆☆☆(☆= 20 点・★= 5 点)